本

『理性の限界』

ホンとの本

『理性の限界』
高橋昌一郎
講談社現代新書1948
\740+
2008.6.

 古書店で見かけたとき、そのタイトルが心にピンときたら買う。百円なら買いだ。これはカントを読んでいる者にとり、手に取らないわけにはゆかない題名だ。しかし、抽象的な哲学議論を蒸し返すのではないだろう。サブタイトルに「不可能性・不確定性・不完全性」とある。この誘い方からすると、ゲーデルを外すはずがないし、そうなると論理の話のような気がする。つまり、脳科学といった分野ではないと思われる。めくると確かにそうだ。よしよし。
 第一、面白い。これは最後まで厭きずに読むことができる本である。全部が、ひとつのシンポジウムでの話を文字にしたことになっているだけであるが、理性の限界についての話題が実によく構成されている。まずテーマとしての「理性の限界」を掲げ、ディスカッションのルールを提示するところから入り、選択・科学・知識という三つの領域における限界について話が進められる。
 司会者がまた実にいい。それぞれの論者が、自分の得意な分野について詳しい解説を始めたがるものだから、それが始まったとたんに、それはまたの機会にして、と話を止めさせ、本筋にすぐに戻るのである。確かに司会者はかくあるべしという感じなのだが、読者には、その議論は脇に逸れるならどこに逸れる可能性があるのかを知ることができる。これは普通に論述している本では取れない策略である。それに、エキサイトして自説を展開し暴走しようとする話者の個性もふんだんに描かれていて、ユーモアを誘う。
 登場人物は、「おわりに」で、いったい何人いたか著者本人も分かっていないと言っている。人間らしい名前が付いているのではない。「学生A」だけが、まあ若者という程度の素朴な存在かもしれないし、「会社員」というのも個性が強いわけではない。だがこの「会社員」も、市井の議論好きな人物として、一番社会の人間の声をよく代弁しているように見える。ほかは「カント主義者」だの「国際政治学者」や「情報科学者」だの、肩書きがその方面の思想の代表者として登場する。「哲学者」と「哲学史家」、「科学主義者」と「科学史家」というふうな使い分けもしていて、その違いを際立たせているのは、もしかすると学会に対する皮肉であるのかも知れない。「フランス国粋主義者」と「フランス社会主義者」まで分けられていると、もうこれがそのまま、様々な思想に対する著者の一種の偏見が浴びせられているようにさえ思えるが、実は読者に取り、これが最も分かりやすいということに、私は気づかされた。固有名詞で書かれていると、こいつはどんな立場だったか、といちいち思い出さなければならないが、本書のようだと、「科学史家というものはこのような考え方をもする」という見出しのようにしか見えず、一つひとつの内容が頭によく入ってくるし、話の流れも大変スムーズであることが分かってくる。この方法、慧眼である。
 最初に話題に上るのが、「投票のパラドックス」であり、やがてその手のパラドックスやジレンマが次々と登場する。後の方では「ぬきうちテストのパラドックス」が現れ、こうしたパラドックスについて、最後に大団円的に解消する結末が待ち受けており、読者はけっこうハラハラしながら、そして愉しみにそれを待つことができる。最後のほうは論理学の高度な説明が少し長く続くから、即座に理解するのは厳しいところがあるかもしれないが、そこまではかなりハイペースで読み進めるはずだ。
 「ハイゼンベルクの不確定性原理」についても、こんなに楽しく読める説明は、見たことがない。「ゲーデルの不確定性原理」もそうである。その点だけでも、まいったという気がした。その意味で、これは科学的認識について、あるいは論理とパラドックスについて、ふだんの学習では難しいなと思っているような学生には、強力にお薦めしたい。だって、一読して分かるから。そして、どんな思想と対立するのか、また親和的であるのか、発言者の見出しで一目瞭然であるのだから。
 ちょっと冗談で発想して、試しに綴ってみたらなかなか面白かった……そんな動機なのかどうか知らないが、これは著者の勝ちである。読者は大歓迎ではあるまいか。
 そんな理性の限界についてだが、カントのように理性の認識能力を探ろうというようなものではもちろんない。カントは理性に認識能力の限界を、自分の定めたある定義によって掲げることにより、自分の言いたい道徳的な原理が根柢にあるべきものだということを、禁じられないように仕組んだ。だが本書は全人類の課題である。科学は何かしら真実に近づいているに違いない。どこまで近づけるのか。それは永遠に発展するのか。それともマラソンの世界記録のように、限りなく0分に近づくなどということがありえず収束点があるはずであるのか。またそれはどうしてか。
 しかし世界は、そのシステム内ですべての真理を汲み尽くすことはできない。その辺りまでは近年明らかにされてきた。ゲーデルの不確定性原理である。そこからまた、すべての真理を知り尽くす「神」は存在できないことを言う人もいる。また、人間は機械のような存在であるのかという方向にも話は進む。これはいま、脳科学の方面では進行中のテーマである。この点では、問題がしばしば「自由」との関係に展開するのであるが、本書はそのような哲学的議論へとは走らず、論理的に理性がどういうものであるのか、に集中していく。このとき、かのゲーデル本人が、人間は機械に留まらないという見解あるいは信念をもっていたことも紹介される。
 このとき、私のモットーであるようなことに話は集約されていく。このように語っている私は、いったい何者なのか、ということである。そして、理性の限界に向き合うことなく己れの欲望が正義であるとしか考えられないで能力を使いまくる生き方を、人間はとるべきではないことへと目が向けられていく。このシンポジウムは、最後に理性の限界を意識することで、むしろ外へと目が開かれていく。好奇心や感受性こそ大切なのだというように、本書での議論には全くなかった世界を指さしながら、終わってしまうのである。これもまた、ひとつのカント的な構造であったのかもしれないが、もっとダイナミックであると感じる。
 こんなに面白い本を、どうして今まで読んでいなかったのか、自分が愚かに思えてくる。本当に、楽しかった。




Takapan
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