本

『律法の彼方に』

ホンとの本

『律法の彼方に』
小原福治
キリスト新聞社
\1800+
2015.12.

 書店で偶然見かけて、教会員に慕われて死後に出版されたという経緯に少し惹かれた。長野の一地方で知る人だけが知るというのはもったいないということで、信徒であろうグループが集まって編集し、400頁を越す説教集が刊行されていた。著作集の一だとされているが、他が出た形跡はないので、さて、どこまで出版されるのか、見守っていきたい。
 教育者である経験が長く、その牧会への証詞がこの説教集でも触れられているが、巻末のほうで、編集者が著者の生涯をよく調べて丁寧に記述している。年譜もあり註も豊かで、やはり信徒に愛されていたのだろうと推測できる。
 1883年に生まれ、1965年に亡くなっている。昔の人の気質があるのだろうと思うが、ずいぶんと厳しかった人のようで、大きな声で信徒の思い違いを叱りとばすようなこともあったらしい。教育者といってもそうした時代の教育者であるから、生徒を殴り飛ばすような勢いがあったのだろう。熱血という以上の、そういう時代の人である。これがキリストと出会って、変わる。いや、救われたというのは結婚時の決心からさらに数年経って35歳の時のようであるから、信仰の劇的な体験はまたそれから後のこと、50歳近くの時のことであるという。
 簡単に紹介できないくらいその生涯にはいろいろな出来事があり、いろいろな人との出会いがあった。これを精緻に調べて丁寧に示されているので、関心がおありの方はどうぞ詳しくご覧ください。
 タイトルがやや珍しいフレーズである。これは小原氏のその決定的な回心の後の境地を象徴しているのだろうと思う。つまり、信仰による義という点であり、律法では全然ないのだという殊を、それはそれは明確に、厳しい態度で語っていたという。きっと大きな声で、時に叫ぶように、熱意をもって語っていたのだろう。文章化したものではその有様そのものを知ることはできないが、感情混じりに、しかし自分の信念にどっしりと腰を据え、揺らぎのない福音の語りを続けていたらしいことが窺える。
 但し、喋っている中でのことをあまり揚げ足のように扱いたくはないが、これこれのことは聖書には全く書かれていないのです、というような強調の仕方が時折見られるのが気になった。というのは、聖書に実は書かれていることがあるからである。説教の場での勢いをなにも否定しないが、客観的に聖書の多面的な主張を抑えて告げるというのでなく、自分の体験からくる断固たる信念に従って語るという方針であれば、そういうことはままある。もちろん、ある方面から見た形で福音を強調するのは当然よいのだ。しかし、その余りに、他は聖書にありえないというように、他の可能性を排除するような言い方をしていると、聖書を根拠に考えている人や団体から攻められたときに対応できなくなる。何も、他を否定する必要はない。否定せずに、福音を語ればよいのである。レトリックとしての他の否定が分からないでもないが、こうして世に問うことになったときに、都合が悪くなるのではないだろうか。結局、異端というのは、そのようにして、自分たちの強調する真理だけを正しいと言いたいために、いろいろ無理な論理を並べ立ててくるものだからである。
 編集した信徒が最後のほうで解説などを加えているのだが、教育者であることと福音との関係の発言について、よく分からないと漏らしているが、どうして分からないのかが私からすれば分からない。小原氏が教育の経験から行っていたことが福音伝道の中で欠点として反省させられる、というようなことを述べている文なのであるが、教育者というのは真理探究者ではないのだから、たとえば解説者も触れているが、ひとを叱りとばすことすらひとつの教育の手段であると考えているのが通例であろう。その思考回路というか感情的行為というか、それが説教をするときにも作用し、あるいは信徒に対して接するときにもつい出てきてしまうというのは、長年教育を、それも評判の立つほどの厳しくまた他人を唸らせるような教育を施してきた方であるから、もう身についてしまっていることなのだ。それはいくら回心を経たとしても、剥がれ落ちるものではない。どうしてそれを言っていることに理解できないなどとする解説者により慕われて編集された書である。他の小原氏の問題点について見えなくなっているということがあるのではないかと懸念する。
 それはそれとして、ルターなりヨハネなり、また自ら学んだ哲学者の思想なりを、小原氏が好み、そして用いて自分の逆説的神学とも呼びうるような形の神学を貫いたというような紹介は、この説教集を読んできた読者には、改めて言う必要のないことでもあると共に、確かにそうだなと納得させるだけのものにはなっている。
 回心が、自信をもたせたというのは事実のようである。これが紙一重で、カルト的なグループさえ作り出すエネルギーであるから、私たちも気をつける必要がある。小原氏の説教は、聖句に留まらずいつも大いに遠回りをし、必ずこの信仰義認の話題にタッチして、また突然元の筋道に戻ってくる。いつでもとにかく信仰義認を言わないと気が済まないというようにも見える。言いたいこと自体が間違っているわけではない。教会でそれを聞いた人々が感銘を受けて変えられたというのも分かるし、そうした人がなんとかこの説教を世に知らしめようと努める思いも想像できる。しかし、そこで別の立場の人の目があって編集されたならば、もしかするともっと受け容れやすい内容になったのではないかと思われる。出版社側からのアドバイスがあっただろうとは思うが、出版社側に編集者がいたのではないような、仲間内での制作であるとすると、これは教会内の同人誌のような意味で作られていることにもなるわけで、「批判」の過程を経ないままに発行されるということになる。強く慕う人たちばかりで編集された本は、仲間には好評だが、世間からは厳しい批判に晒される運命にあるのだ。
 ただご当人にとっては、これだけ慕われて、幸せであろう。その点は、羨ましくさえ思う。




Takapan
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