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『臨床心理学 134第23巻第2号 中井久夫と臨床心理学』

ホンとの本

『臨床心理学 134第23巻第2号 中井久夫と臨床心理学』
黒木俊秀編・岩井圭司・村澤和多里編集協力
金剛出版
\1600+
2023.3.

 もちろん専門外だが、中井久夫が特集してあるというので手に取った。2022年8月に没して半年余り、その間いくつかの重厚な雑誌が特集号を組んだ。現代日本でこのように扱われる人は、それほど多くない。精神科医であるとともに、無類のエッセイストとして巧みな文才を発揮した方である。ギリシア語の翻訳についてもたくさんの業績を遺しており、広く文化を踏まえた天才であるとしか思えない。しかしその精神科医としての働きについては、とくに阪神淡路大震災において、被災者の心のケアをいち早く守る方法へと動いた点が大きな仕事であったのかもしれない。私も知ったのは、そのことに関してである。
 本書は、この誌のタイトルのとおり、「臨床心理学」をテーマに、関係者が綴っているため、よりひとつの専門的な眼差しを知ることができる。従って、まず「臨床心理学」全般の視野を提供すると、次は「心理療法」や「芸術療法」へと進展する。後者は、絵画を描かせてクライアントを理解する道についての思い出である。
 どこにあっても、中井久夫先生と直に触れた、あるいはそれに準ずる人々による、先生の思い出話という意味合いが強い。学問的にそれを検討するというよりも、現場における先生の人間性を、身近な者だからこそ伝えられる情報として、私たちに提供してくれているような印象を受ける。
 さらに「トラウマ臨床」という視点から同様に触れた後、中井久夫自身が加わっていた2007年の鼎談が掲載されて結ばれる。座談会の題は、「私が面接で心がけてきたこと」であり、「精神科臨床と臨床心理学をめぐる考察」というサブタイトルが見える。中井自身が、精神科を選んだ経緯や、臨床の日々を語る場面が多い。親しい交わりの中での発言は、流れによって、ふだんあまり明らかにしたことがない逸話がこぼれることもある。また、それは弟子の側についても同じである。中井の方も、その発言にびっくりしている場面がある。臨床というのは、公式にあてはめて結論を出す場面ではない。あくまでも目の前にいるその人間がすべてであり、その人と向き合うことによって初めて、拓ける世界がある。その辛さが生じる、置かれた情況にしても配慮しつつ、医師自身がそれと向き合う必要があるだろう。そのとき、互いを往復するのは言葉であるけれども、言葉や文字が支配的であるわけではない。表情や口調など、その場における人格の接点のすべてがものをいう。面接の重視こそが、臨床なのである。
 病気は、その人の生活の一部分である。鼎談の解題の中で黒木氏が触れているように、中井が教えてくれたこのことを、弟子たちのみならず、本書に触れたあらゆる読者が、根柢に置くのでなければならない。医師が患者を変えたり、治したりするという枠を取り払うことが必要なのであろう。
 中井久夫氏は、2016年5月29日に、天の聖母カトリック垂水教会で、洗礼を受けている。ペンテコステ礼拝の翌々週である。本書の説明によると、車椅子姿であったという。洗礼を受けるわけについて、「驕り(ヒュブリス)があるから」と答え、神とは何かと尋ねられると、「便利なもの」という謎の答えを示したともいう。その母親が聖書をよく読んでいたというその影響だろうか、という推測を紹介するも、筆者自身は、また別のところに、洗礼の背景を見つめている。
 中井は、『「甘え」の構造』でよく知られる土居健郎とのつながりがあった。土居健郎がカトリックの信徒であったこともよく知られている。さらにこの土居にも、橋本寛敏というクリスチャンの師がいた。「君はほんとうはカトリックなのにそれに気づいていないのだ」と言われたことを、中井は、土居の追悼文で綴っているという。こうした側面は、本誌ではこれ以上強調されないが、今後、もっと明らかにされていくべきことであるだろう。精神医学の側からしても、信仰という問題は、決して無視してよいことではないはずである。




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