本

『倫理力を鍛える』

ホンとの本

『倫理力を鍛える』
Q&A善悪の基準がわかりようになるトレーニングブック
加藤尚武編著
小学館
\1,500
2003.6

 善い戦争はあるのか。自殺はなぜ悪いのか。哲学的な問いともいえるものから、私たちの関心は発展していく。不倫は過程を壊しさえしなければ構わないのではないか。昔から偉大な政治家は小市民的なルールを超えていたから、そもそも政治家にわずかな金や女のことで注文をつけるのは間違っていないか。女性社員を見てニヤリと笑ったらセクハラと言われたがおかしくないか。ボクシングはなぜ禁止にならないのか。子どもを虐待するような親が多いから、親になるのも免許制にするのはどうか。地球環境を壊すのは人間ばかりであるのに、他の動植物より人間が尊重されるのはおかしいから、人間第一でなく人間を減らすよう動いていくべきではないか。
 中には産経抄の筆者が聞いたら喜びそうな題材もある。まさかというような過激な問いもあるが、「そんなこと当然じゃん」という答えしか浮かばないものもある。もし相手が論客としてその問題を突き進めたら、論理的に反論できない場合もあるだろう。少し前にも、「なぜ人を殺してはいけないか」と若者に問われ、大人はまともに回答することができないことがあった。
 倫理学というと、古くはアリストテレス、近代の基盤としてはカント、人によってはヘーゲル、日本の知識人なら和辻哲郎あたりが浮かんでくるだろうか。それらは立派な古典である。だが、倫理学が古典であってよいのか。私たちは、今生きる私たちが抱える問題についての解答を、倫理学に期待するのが本当ではあるまいか。だのに現実には、倫理に対する回答を堂々と呈しているのは、テレビでニュース報道を今聞いたばかりの、素人コメンテーターたちばかりである。そこに思索や理論はなく、ただ感情だけで、視聴者を配慮したコメントが垂れ流しになっているだけ。場合によっては、タレントやマスコミをひたすら擁護するだけの電波使用にしかなっていないと言われても仕方がない。
 物事の判断には、基準があってしかるべきである。基準、すなわち原則。何らかの原理に基づいた規則であるのが原則。日本語でいう「原則として」という表現は、本来ありえない使い方である。原則は揺らいではならない。例外がありえないから原則なのである。さらに私たちは実際の生活で、その原則を活かすために、様々な具体的規則を生み出す。倫理学は、その原則を明らかにし、現実のケースに適用できる規則を提示するのが仕事となる。
 私たちの社会の問題の背後に、どのような原理や原則があるのか。私たちは、もう少し考えてもいい。
 加藤教授は、「愚行権」や「他者危害の原則」という言葉を生みだし、あるいは広めた功績がある。たとえ外から見ればばかなことでも、本人がそのばかなことにお節介を焼くわけにはいかない場合がある、というのが前者であり、後者は、倫理の基準は、他人に危害を及ぼすことについては、禁止しなければならない、という原則である。
 タバコを自分が吸ってからだを悪くしても前者によって守られるが、後者に基づくと、タバコの煙を人に吸わせたり、火種を人に触れさせたりしては断じて許されない、とするのである(ただし、タバコのためにかかる医療費が他人に負担を強いるとなると、愚行権とは言えなくなるという意見もある)。
 この本で扱われた問題はいずれも、興味深いもの。そして、たんにイエス・ノーの答えで終わっているのではなく、あるところから先は読者自らが検討していくように仕向けられている。だからこ、トレーニングなのである。安易なコメントを期待する人には不向きであるが、はたしてどうすべきなのか、と誠実に考えたい人には絶好の書である。いや、誰もが、そうでなければならないとは思うが……。




Takapan
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