本

『倫理の探索』

ホンとの本

『倫理の探索』
関根清三
中公新書1663
\780+
2002.10.

 旧約聖書について特に定評のある著者であり、その父親関根正雄の名は知らない人がいない旧約聖書学者である。息子のほうも旧約に造詣が深いが、倫理学方面で活躍している。聖書の原語とその文化的背景に基づく堅実な理解を提供し、現代の私たちの生きるこの世界とのつながりを適切に説き明かすというのが著者の持ち味であろうかと思う。
 新書は、そうした高度な手筈を披露するものではなく、電車の中で片手で読んでも肯ける、あるいは知識を受け取る、そうした本であることが期待される。基本的に注釈はいらないのであるが、本書には注釈がある。それは、出典の聖書箇所が中心である。本文の中に聖書箇所を指示するのは、論旨を追う場合には確かに目障りであると感じる読者がいるかもしれない。どうせ読みながらその箇所を参照するような真似はしないわけだ。だったらすっきりと、話の流れを見せておいて、もし気になる人がいれば落ち着いて注釈を開いて聖書を参照すればよい、という考え方は理解できる。その意味で、ただの新書の類を越えた、展開性をもたせた本、あるいは著者らしく、根拠を明確にしたいという気持ちの現れの出た本であると言えるかもしれない。
 副題に「聖書からのアプローチ」とある。そう、これはキリスト教倫理の本なのであって、他宗教についての言及はない。そして多方面における倫理のアプローチも、ない。単純に、キリスト教倫理なのである。問題性は現代社会のものを取り上げているが、その検討から解決まで、すべてキリスト教しか扱わないのである。この副題を見落として、タイトルだけで手にした人がいるとすると、がっかりするかもしれない。果たして聖書だけで現代の問題が解決できるのか、と考える読者もたくさんいるだろうから。これが小さくとも表紙に書かれてあるのは、まだよかったとも言えるだろう。
 しかし、もう少し正確に言えば、本書はギリシア哲学も含んだ説明を心がけている。つまりは、ヘブライズムとヘレニズムという、西洋思想の2つの源流からアプローチしている、ということである。これを踏まえて接するのがよいだろうと思う。
 こうなると、実のところ、倫理問題を考えるためというよりも、聖書を理解するために役立つ一冊であると言えるかもしれない。それくらい、本書は縦横に聖書が説かれ、その考え方が、新書としては非常に深く明らかにされている。その中でしかも西洋哲学の理解が絡んでくる。西洋哲学からキリスト教を抜くと殆ど骨抜きになってしまうであろうから、実質それは聖書との対話のようにもなるのだが、それでも、一定の哲学的知識が求められる場面があり、その道でない人には読みにくいところがあるかもしれない。
 このようなわけで、現代の中でのキリスト教の位置や役割のようなことを真っ向から語っているところもあり、本書はキリスト教入門という意味での、案外優れた解説書となっているように見受けられる。
 もちろんこれは新書。あらゆる倫理に触れることはできないから、著者の得意とする方面ではないかと思われるが、殺人と姦淫について深く掘り下げて説明されている。ヘブライ思想とその言語、聖書の本来の主張などが随所に置かれ、ほんとうに聖書を理解するためのよいガイドとなっていると思う。だから聖書の学びのためにもっと役立てられたらよいのではないか。というのも、倫理的な結論がもしここに与えられているとすれば、それはキリスト教から見て非常に安定した、ある意味ではありふれたものが多く、真新しい冒険がなされているかどうか期待すると、面白くないと思われるかもしれないからである。それは、教えられることがない、などという意味ではない。たくさん教えられる。だから学べるのである。ただ、新奇なものを求めて読んでも、愉快ではないかもしれない、ということである。
 最後には、「驚き」という概念によって、倫理を捉えようとしているところがある。これは冒険だと思う。本当にそうだろうか、少しこじつけではないか、という気がしないでもないが、本書が冒険をして、思い切ったことを宣言している部分としては、ここを置いてほかにないというふうに見える。そこには古代ギリシア哲学の歩みが丁寧に記録されており、これと旧約聖書との違いが分かるように並べられていく。そして、いま私たちはどう驚くものだろうかと思案し、また読者に問いかけて終わる。ここが、著者の願いなのだろうと思われる。
 驚きのある人生は時間を長く感じることだろう。慣れてしまうとき、時間はあっという間に過ぎ去るからだ。倫理がひとつに幸福を求めるところに関わるとすれば、驚きというモチーフは、確かに優れて倫理的なテーマであるかもしれない。




Takapan
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