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『倫理21』

ホンとの本

『倫理21』
柄谷行人
平凡社ライブラリー
\840+
2003.6.

 柄谷行人というと、日本の論壇で最も頭の鋭い人というイメージがあり、昔開いたところついていけなかったことがある。それでなんとなく組み合うことができなかったのだが、ふと見つけた本書をぱらぱらと開いてみて、これは読めるかもしれない、と思って購入した。
 間違っていなかった。「責任」というテーマで講演をしたときの内容を記したという本書は、12の章に分かれ、それぞれがまとまりよく、何より丁寧体で優しく響く言葉が、なんとも読みやすい。カントをよく引用し、また比較しているところも、私にとっては幸運だと思ったが、実のところ、扱っているテーマが、私の問題意識と合致するものがたいへん多く、問題というテリトリーにおいて共有感を懐くことができたというのも、幸運だったと言えよう。だからとにかく、本書は私にとり非常に楽しい相手となり、愛着さえもてるものである、と言わせてもらってもよいのではないかと思う。
 いくらか具体的にご紹介しよう。というより、本書は章のタイトルが豊かな言葉に満ちているので、それを並べることで十分であろうと思われる。
 親の責任を問う日本の特殊性
 人間の攻撃性を認識すること
 自由はけっして「自然」からは出てこない
 自然的・社会的因果正を括弧に入れる
 世界市民的に考えることこそが「パブリック」である
 宗教は倫理的である限りにおいて肯定される
 幸福主義(功利主義)には「自由」がない
 責任の四つの区別と根本的形而上性
 戦争における天皇の刑事的責任
 非転向共産党員の「政治的責任」
 死せる他者とわれわれの関係
 生れざる他者への倫理的義務
 こういう具合であるが、私からすれば涎が出てきそうなテーマばかりである。しかもそれらが、十分な根拠と説得力を以て論じられているのだから、読み物としても読ませるし、力がこもっていることを感じることができる。思想的にそれには反対だという前提の人がいる場合には鼻持ちならないだろうが、それぞれの評論的講演は、どれも聞き甲斐のあるものだったはずだ。
 1995年から97年の講演を基調としているので、そのころに話題になった問題や時代状況、また関心がここに反映されているのは当然だが、そこからずいぶん経ってもなお、勢いが古びているようには聞こえないところがさすがである。つまりそれだけ普遍的な議論となっており、私たちにとり見当しなければならないことが適切に取り上げられているということなのだろうと思う。このライブラリーに入れられたのは2003年であるが、それぞれの事件性については章毎に注釈が入れられているので、当時のことをよく覚えていない場合にも、問題が整理されやすい。よく配慮されていると思う。だからこそ版を重ねているのだろう。
 原因を問うことと責任を問うこととの間には距離があること、こうして責任という問題が明らかになるが、これはその後中動態の研究から國分功一郎氏が展開している問題意識とつながってきており、私はこの問題はこれからもしっかりと検討されなければならないと考える。
 そこには自由という概念がどうしても絡んでくるものであり、國分氏もスピノザを取り出して自由について考察しているが、柄谷氏の場合には、カントが重要な拠り所である。自由があるからこそ道徳性がある。カントがそこで義務と突きつけるのは、「自由であれ」という義務であるのだという。これはカント自身が強調しているようには思えないが、それを改めて私たちの次元で捉えるために非常に有効なものではないかと感じた。つまり自由をなにも理論的に証明しようというものではないし、もちろんそれはカント自身が理性には不可能だとしているのであるが、そしてカントはそれを理性の事実として実践的に規定してしまった前提のような原理であるのだが、柄谷氏は、自由をダイナミックに自分の中で命じられ、あるいは要請されるかのように生じてくるものだと説得してくる。
 理性的であるというのは、感情に対立するものであるようにも思えるが、むしろ人間的な残虐さをもたらしたのはまさに理性であったと看破し、カントの国家論をひとつの契機として、国家に対する不信を暴露する。
 その後も、議論はカントを基底に置いて展開するものが多いが、それは「私の考え」なるものが「カントを読むことによって出てきたから」であると明かしているところも興味深い。とにかく一つひとつの議論に味わいがあり、じっくりとつきあっていくべき語りなのである。だから私は、一日に一章ずつしか読まなかった。今日はこの話、と受け止めて愉しんでいた。これを幾章も流し読みするのはもったいないと思ったのである。
 ヤスパースを持ち出して、戦争の罪を四つに分けて説明したものも興味深い。刑事上の罪・政治上の罪・道徳上の罪・形而上の罪というそれらを丁寧に挙げ、この最後のものでなければ、責任を問うたことにならないのだ、と提示する。日本が戦争責任を論じたり、それを果たしたと言ったりするのは、全くこの段階には来ていないということをそこから明示する。私たちには、この宿題が課せられているとすべきではないだろうか。これを問い直すことを、たちまち国賊だとか自虐だとか攻める輩こそ、実は全く責任というものを考えもしていないのだと示すことが必要なのではないだろうか。
 それは、過去にいた人々との対話ともなるし、未来にいる人々との対話ともなるはずである。この二つの問題が、最後の2章で扱われるが、これらがあるからこそ、確かに本書は「倫理」という題だったのである。もちろん「21」は、21世紀に私たちが何を知り何を考え、何を行動していくかということを正面から問うている。そうではないだろうか。




Takapan
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