本

『りんごの木を植えて』

ホンとの本

『りんごの木を植えて』
大谷美和子作
白石ゆか絵
ポプラ社
\1500+
2021.4.

 児童文学である。文字も比較的大きく、行間もあり、ふりがなも十分打ってある。図書館でこれを手に取ったのは、もちろんその題名による。ルターの言葉だとよく言われている、あの言葉をモチーフにしていることが、明らかではないか。
 主人公は、みずほという五年生になったばかりの女の子。二世帯住宅で暮らすが、食事や生活は基本的に分離しているらしいことが、冒頭から分かる。場面を描くだけで、環境を説明してしまうところが、文学者の腕というものであろうか。
 おじいちゃんが、少し具合が悪そうだ。見るからに、ではないにしろ、何かしら予感させる描写が続く。申し訳ないが、これで物語の筋書きは見えてしまった。もちろん、そのタイトルと重ね合わせてのことである。そして、概ねその期待を裏切ることはなかった。児童文学だもの、これで十分である。
 みずほに対しても、やがて一種の告知が進む。おじいちゃんは、病院で不自由なままに治療を受け続けるようなことは、拒む。頑固者だという描写があるから、その一徹さは読者にも認められるものとなろう。子ども相手であるから描かれてはいないが、治療費の問題も、そこには実際絡んでいたかもしれない。病状は、そうそう深刻な事態には陥らない。同じ年の親友との交わりの中でも、死に対しても冗談が言える程である。
 阪神タイガース好きなおじいちゃんは、みずほの兄と二人して甲子園に行く。行けば疲れるが、家族のそれぞれと思い出をつくるかのような行動が、子どもたちの読者にもきっと伝わりやすいことだろうと思う。甲子園に1時間以上かけて行くディテールからすると、作者が河内長野に住んでいたことを、そのままモデルとして物語っているのだろうと思う。露骨には出さないが、語る言葉のやさしさは、関西の言葉であることを感じさせる(但し作者は福岡県出身だと記してある)。
 みずほとは、森に出かける。おじいちゃんが運転するので、まだ元気と言えば元気なのだ。だが、死を前にしたほのめかしを、花の世話について語るおじいちゃんに、みずほも気づき、黙りこむ。そこへ語りかけるおじいちゃんの言葉が心に残る。「人間もな、自分の持ち時間をていねいに生きることが大切やと思う。」
 この流れの中で、「たとえあした、世界が滅亡しようともきょうわたしはりんごの木を植える」という言葉が現れるのだ。ここだけである。
 ふだん、物語の筋については明かさないことをモットーとしていた私ではあるが、今回は饒舌になってしまった。もう筋は負わないことにする。
 ただ、後半で、讃美歌が登場することで、私は思わず前のめりになった。祖父と祖母が讃美歌を演奏し、歌うのだ。その他、最後にも讃美歌が登場する。私の知らない讃美歌だった。
 だが、教会はどこにも出てこない。聖書の言葉も、また信仰生活についても、明らかにされているわけではない。ただ、かつてクリスマス・キャロルを毎年歌い歩いた、などとさりげなく出てくることは、間違いなく教会員である。しかし聖書の言葉を握りしめるとか、それを孫に伝えるとか、そうした様子は全くない。クリスチャンとしては、伝道力に欠ける――だが、それでよいのだ。この物語が、伝道目的であるのではない。また、聖書の言葉を持ち出すことだけが、伝道なのでもない。神が共にますという確信を懐いて、死に向かい生きていく姿そのものが、見事なクリスチャンの姿だと言えるのではないだろうか。
 説明や、演出など、いらない。死を前にして、そして同じように生きていく。淡々と生きていく。命あるもんは、つないでいくんやなあ、といった言葉は、きっと永遠の命のひとつの意味を読者に与えてくれるのだろう。本書は、それで十分だ。手に取った子どもたちに、こうしたことが伝われば、すばらしい出来事となるはずなのだ。
 作者は、クリスチャンに違いない。そう思った私は、早速検索した。だが、そうしたプロフィールは、全く出てこない。ただ推測だけでそのように断定したことを、こうした場で書けば、デマを拡散することになる。諦めかけていたが、情報があった。少し前の雑誌に、あった。河内長野の教会員であるのだ、と。
 讃美歌の歌詞を、少しだけ出してきた。それは、この物語に相応しいものだった。だが、連れ合いや身内の人を先に送ってきた著者が、しみじみと噛みしめる信仰生活の真実が、そこに十分現れているように、私には感じられた。フィクションではあるけれども、これは立派な証しなのだろう、と私は告げたい。




Takapan
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