本

『ルネサンスとは何であったのか』

ホンとの本

『ルネサンスとは何であったのか』
塩野七生
新潮文庫
\579
2008.4

 2001年に出されたものを文庫化したもの。ルネサンスものが今後も文化でシリーズ化される最初となったらしい。
 才能のある女性がこうしてキリリとした著作を続けている中に、割り込むことは難しい。イタリアについて現地に暮らして知り尽くし、歴史を探究して自分なりの構成でそれを描く。文明の歴史に意味を見出し、ひとくくりにして語りつつ、ひとりひとりの人間のドラマを描くというスタイルをとる。はたして文学なのかどうなのかといった議論すらあり、それはローマ人の物語シリーズという華々しい成果の中でも、言われていることなのかもしれない。
 ローマ帝国を見つめた視線の先がルネサンスにあることも、何の違和感もない。イタリアの歴史がこの著者の中心にある。むしろ大学での卒論のあたりから、このルネサンスは注目されていたのである。
 鋭い切り口から、歴史の中の男たちを斬りまくるといったイメージすらある。人間の強さも弱さも見出し尽くしたような書きぶりである。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアといった都市環境における考え方の相違も語られ、読む者を厭きさせない。この本は、対話形式にしてあるが、対話というよりは、自分で演出した説明を促すための進行役を配置したというような意味である。
 読み応えのある本であることは間違いない。
 が、そこに歴史的な価値観についての大鉈を振るう場面において、私はどうしても違和感を覚えてしまう。
 西洋がキリスト教とギリシア哲学の融合を目ざしあるいはそれを背景にして文明を成立させていった、というのはよいのであるが、キリスト教が二元論でありギリシア思想は多神教なのでそうではなく……と簡潔に言い切ってしまうことである。二元論的傾向が西洋においてよく用いられたことについては、否むつもりはないのであるが、キリスト教が中東、つまりメソポタミアやペルシアの息吹の中で、もっといえば東洋の発祥であることや、キリスト教はむしろグノーシス主義などの二元論を超克して成立していったという元々の過程を吹っ飛ばして、キリスト教=二元論としてしまっていることが原動力となって、キリスト教を批判している様子がありありとうかがえるのは、どうなのだろうか、と感じるのである。
 聖書をずいぶん批判的に研究する人々の中からも、キリスト教というものをこうした二元論に片づける風潮について、底の浅い日本の知識人の単純な図式がまかり通るのはよくないことだ、という論評が見られる。
 キリスト教だという勢力が、歴史的に胡散臭いことを続け、とんでもないことをしてきたという事実を否定するつもりは私にはない。だが、それが人のしたことであるというのでなく、キリスト教それ自身の誤りであるとか、キリスト教はそういう性質をもっているとか決めつけてしまうというのは、あまりに早計な結論に過ぎないのである。
 ローマ帝国や、ルネサンスといった、ラテン民族の歴史を探究し、そこに意味を見出すことについて、素晴らしい仕事だと私は賛辞を送りたいのと同時に、そのことからキリスト教それ自体を単純化してしまう誤りの谷に落ち込んでしまうと、大切な真理を覆い隠すことになってしまうのではないか、と懸念する。
 最後の最近の対話の部分にも、哲学を大学で学んだという著者が、哲学をそんなふうにしか見ていないのだろうか、と疑わせるような表現もあった。イタリアの文化を学んだことが、イタリアの文化を形成した元来のものをイタリア風にしか捉えられないようにしてしまったとすれば、少し悲しいことであるように感じた。




Takapan
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