『恋愛と結婚』
エレン・ケイ
小野寺信+小野寺百合子訳
新評論
\3800+
1997.6.
1973年に岩波文庫で上下巻として出版されていたらしい。この2人の訳による者で、その後四半世紀を経て、「改訂版」として再び世に出た。しかも、これはハードカバーのかなり大がかりなものである。400頁を少し超えるくらいだから、20世紀の終わりとしては、かなり高価な印象を与える本であったことだろう。
この改訂の間に、小野寺信氏は他界し、妻の百合子氏がこの仕事を引き継いだ。改めて勉強をし直し、以前よりも理解度を増すという新鮮な体験を得て、90歳を数える中でこの出版に至ったらしい。信氏は、スウェーデン駐在陸軍武官という情報将校であったという。そのことが縁で、エレン・ケイの翻訳の話が来て、引き受けたということらしい。
エレン・ケイは1849年に生まれ、女性に選挙権がない時代を生き、1926年に没している。名高いフェミニストであり、教育思想に於いても影響を与える発言をしている。とにかくものをはっきり言う人であるし、その後スウェーデンという国が、女性の問題について先進的な動きを見せてきたというのにも、大きな力を及ぼしたのではないかと推測できる。特に美術的な方面でのその力が知られているようであるが、その辺りについては私は殆ど受け売りで言及できるに過ぎない。
訳者が「あとがき」で、「難解で有名なエレン・ケイ」という言葉を投げかけているのは、確かに言語面でのことを言っているのかもしれないが、私はその内容もさることながら、言い回しにもかなり難解さを覚えることがあったことを付しておくことにする。
文が巧みなのである。それでいて、本音がどこにあるのか、掴みにくいような文章の流れを作り出すように見える。よほど予めエレン・ケイの思想を把握してからでなければ、ただ文章を辿っても、何が言いたいのか、見出しにくいような気がしてならないのである。
もちろん、これは1903年、百年以上前の本である。当時では常識であったことを前提として次々と語るのは当然であって、百年後の人に理解されようと説明を施すことは、普通しないだろう。そのための無知も関係しているかもしれない。あるいはそれとも、それは日本語訳の方に、難があるのだろうか、とも疑ってかかりたくもなった。さもなくば、これは単に私の頭脳が稚拙なせいである。もしくは、女性の気持ちが分からない男社会の末端であるせいである。
本書はまず、訳者たちにより、「エレン・ケイについて」説明がなされている。学校の教師であったエレン・ケイは、当時のスウェーデンの「革新の嵐」の中で、自由思想を吸収していった。特に「婦人解放運動」に加わると共に、その先頭に立つような立場へと変わっていった。訳者は、「婦人の選挙権について正々堂々と自分の意見を発表した最初のスウェーデン女性であろう」と書いている。
そして本書は、女性の性道徳を正面から見据え、タイトルの通りに「恋愛と結婚」について述べている。これがまた、私たちに分かりにくい一因である。当時の常識的な結婚のあり方や、恋愛観といったものについて、全く知らないからだ。それでいて、エレン・ケイは当時の社会にかなりねちねちと攻撃をかけ、具体的な事態をも明らかにしながら、恋愛と結婚は違うなどと熱心に演説するように語るのである。
もちろん、それは教会の教えに従うようなものではない。そのようなものを基準にはしない。女性の本音を暴露したと見るべきなのか、エレン・ケイ自身があまりにも進んだ女性であったのか、そうした判断も私たちはしづらいのである。その著作の中には、政治的な発言であるだけでも、ヴァチカンの禁書目録に加えられたものもあるという。
内容を解説できるような明晰な頭脳は、私にはない。従って、各章の題を並べる事で、本書がどういうことを述べているのかだけでも紹介させて戴こう。「性道徳の発達過程」「恋愛の進化」「恋愛の自由」「恋愛の選択」「母となる権利」「母性からの解放」「社会における母性の役割」「自由離婚」「新結婚法の一提案」という具合である。
岩波文庫の方は私は直接見ていないのだが、本書が「全訳」であることを強調していることからすると、先のものは抄訳であった可能性が高い。それでも本書は、『生命線』と称する三部作のうち、第一部が、英・独訳に於いてつけた題を、本人も採用したということらしい。膨大な思想の中の、一部分に過ぎないのであって、彼女の思想の全貌を見ることは、本書だけからでは不可能である。
ただ、特筆すべきものとして、最終章の「新結婚法の一提案」が面白いことをお知らせしておこう。「恋愛が結婚道徳の基礎であるべきこと」、そして「恋愛は平等を基礎にしている」という時代になりつつあることから、女性を不利に陥れる宗教儀式による結婚ではなく、「市民結婚」でならない、という。そうして、どんどん走り続け、労働する女性を守るためにも、社会制度がどのようでなければならないか、延々と語っている。
そうなると、家事労働が金銭的にカウントされないのはおかしいとか、男の不貞には甘いが女性の不貞には厳しいのはおかしいとか、具体的にも触れられる主張に、現代の私たちはびくびくしてしまう。そういうのは、正にいま問題になっていることではないか。あるいは、問題にさえしていないことではないか。
社会制度や環境が、余りに違いすぎる。だが、男の女の関係と、男社会の法律というような問題が、いま解決されている、と言えないことを、恥ずかしくさえ思うようになるのである。
平塚らいてうが、本書の翻訳を1913年に始めている。『青鞜』にその抄訳を読むことができる。そして、それが『青鞜』のアピールに大きな影響を与えたことは言うまでもない。私がエレン・ケイを知ったのも、実はそこからである。社会的にも時代的にも、理解しづらかったり、現代には当てはまらないところがあったりするだろうけれども、逆に現代だけ見ていては気づかないことに、気づかされることになるのではないか、とも思う。フェミニズムに賛同する人もしない人も、本書には、ドキドキしながら触れてみるとよいのではないか、と思う。

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