本

『なぜ日本人は劣化したか』

ホンとの本

『なぜ日本人は劣化したか』
香山リカ
講談社現代新書1889
\735
2007.4

 日本人は劣化したのかどうか、を問う本ではない。「なぜ」は哲学書的な言い回しをするならば「いかにして」であり、事実の背景を問う問い方となっている。
 日本人は、劣化したのである。
 これを聞いたとき、「なんだ。それを認めていいのか」と気が抜けたような気持ちにすらなった。私はまだ希望を抱いていた。若い世代の力に、新しい未来が築かれていくのではないか、という期待をどこかに有していた。この著者にしても、希望を見失ったわけではない。だが、あくまでも厳しく、劣化は抑えられないという捉え方が、ずっと残っている。
 若者や若い世代の親たちを見て、年寄りが嘆いて言うばかりではない。むしろ、その年寄りたちがかなりおかしいというのも、見て取れる。たがが緩んだ、という言葉で表現した人もいた。
 だから、修身が優れており、回帰するのだ、というご本人たちが、一番怪しかったりする。著者も、そのような意味でなど少しも述べてはいない。
 世相に通じた著者ならではの、そして心の悩みを相談する立場にある著者ならではの、こんなことがあるのか式の情報も紹介される。だが、それがひどく特殊なケースであることも十分弁えた上で、その背後に何か得体の知れないものが控えている、ということも、どうやら感じておられるような書きぶりであった。
 いきなり、ごちゃごちゃ説明をしたものなど、誰も読まない、という事情か紹介され、うっすらとそうなのかなと予感していた私は、はっきり宣告を受けたようなショックを感じた。これでは、聖書を読むはずなどないのである。一般の人はもちろん、へたをすると、洗礼を受けた信徒ですら、聖書など殆ど読んだことがない人が少なくないのではないか、という気がしてくる。
 コンピュータゲームもすでに根付いた社会であるとした上で、ロールプレイイングゲームすら、すでに下火であるというのは悲しいことだと断じている。もはや、人々は考えることすらしなくなっている向きにあるのだ。
 考えなくなった人々は、知に長けた為政者にうまく利用されていく。それもまた恐ろしい。互いに相手が悪い、相手がおかしい、と対立している間に、漁夫の利のごとく、人々はこぞって、本来望みもしなかった世情へ巻き込まれていく。
 終わりのほうで、カントの超越論的仮象の概念すら飛び出してきて、懐かしく思ったが、なるほど、カントも現代に見事に活かしうるのだと改めてその偉大さを知るような皮肉なことにもなった。
 読書を忌避する人々の未来は、たしかに明るくない。電車の中では、相変わらずケータイに見入る者が多い。こうなれば、まだ夕刊紙などを読んでいるほうが、ましだったのかもしれない。
 私は、教育の世界の「生きる力」なる語を、別の意味あいで捉えていたが、この著者も、私と近い捉え方をしているようだ。この問題は、まさに「生きる力」の危機である。危機管理能力が問われるとすれば、この事態をどう捉えるかを問題にしなければならない。悲しいのは、それすらできていないということである。
 こういう「生」の群れの中に、キリスト教を伝えるというのは、従来の仕方では全然だめであるということも、どうやら間違いなさそうである。




Takapan
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