本

『レキシントンの幽霊』

ホンとの本

『レキシントンの幽霊』
村上春樹
文春文庫
\429+
1999.10.

 なんといっても、この短編集には「沈黙」が入っていたというのが、大きかった。学校図書用として、この話だけでブックレット的ではあるが、単行本化もされている。
 もちろんネタバレは禁物だが、これは「いじめ」をテーマとしているように見える。昔話を語るという点が、ある意味でひとつの救いではあるのだが、壮絶な「いじめ」の思い出を語る大沢という男。それは、青木という頭のいい同級生の、陰湿なものだった。大沢はたまらず一撃を食らわすが、そのことが数年後にさらに陰湿な報復となって返ってくる。だが、問題はその青木なのではない、というところに、村上春樹は話の結末をもってきた。
 他の長編でも、村上春樹の主人公やそれに近い人物は、暗い内面をもっており、さっぱりとした考えてあるようでいて、かなりねちねちとした性格をもっていることが多い。そしてストーリーとしては、決して大団円を見せたり、スパッとした終わり方をしたりはしないように思えていたが、この「沈黙」はどうも趣が違う。これは本当に村上春樹なのか、と疑えるほどのものなのだ。
 この村上、2009年にイスラエルにおいて「エルサレム賞」を受賞している。そのときのスピーチが、いまだに語りぐさなのだ。「壁と卵」という題をつけて公開されているが、その中心部分で彼は次のように話す。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?」
 私は、口先ばかりの人間である。そうした人間も何かしら価値があるという慰めを自らするくらいしかできないのだが、同じく口先ばかりの人間たちが、自分は物事に関わっていないかのような素振りを見せ、また実際自分でもそう確信しているのだが、実は世界を悪い方に動かしている張本人なのだ、というような点を指摘するのが自分の仕事だと考えている。このメタファーで言うならば、自分でその気がないかのような顔をしておきながら、見事に壁となっている人々に、なんとかそのことを自覚して戴きたい、などと不遜なことばかり考えている。これはキリスト者も例外ではないばかりか、キリスト者の中にこそ、このような人々が多いことも知っている。善良な人々が、以下に人を排除し、威圧し、追い詰めていくものか、よく知っている。
 村上のいう卵の側に立ちたいというスピーチは、確かに作品の中にも貫かれていたというふうに理解したいと思う。
 ここには、1990年代に書かれた短編が集められている。少し怖い要素がいくつかあると思うが、全体的に読みやすい。標題となった「レキシントンの幽霊」にしても、彼の音楽趣味と友だちづきあいから、実は人はかなり淋しくて、孤独なんだというようなことが醸し出されていて、切ない。
 短いが「緑色の獣」には、ぞっとするような人間の本性が、ふとした弾みで動き出す怖さが、事ある毎に思い出されそうである。しかしこのような怖さが、自分の中にあるのだということに直面させられるのも本当だ。
 その他の話にしても、人が死ぬ場面が多い。自分にとり大切なものが失われていく悲しさが前面に出てくるが、そういう自分が失われていくということには、直接関わらないようだ。ただ自分は、いつからか、どこからか、孤独になってしまうことが、ひとつの結末になっていくのだとすると、人生のやるせなさというものばかりが、読んだ後に残ることになる。気が重くなるのだが、ふと読み終わったときに周りを見渡せば、やはり自分はひとりなのである。いわば、当然の結末に戻ってきたようなことになる。だから、それはそれでよいのだというふうにも思える。
 女性の描き方に対して、村上に対して物申す人が多いようだが、本書では女性の活躍できる場があまりない。3人のうち2人が主役と言えるが、うち1人は、なかなかの猛者である。必ずしもそこに男女差をもって読んでしまう必要はないように感じる。「人間」という無性の存在はないと言われるかもしれないが、ここはひとつ「人間」として読み味わってみては如何だろう。読み応えのある作品が多い。




Takapan
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