本

『日本人の歴史意識』

ホンとの本

『日本人の歴史意識』
―「世間」という視角から―
阿部謹也
岩波新書874
\700
2004.1

「協調的な姿勢を常に示し、極端に感情的な行動は慎まなければならない。……一人だけ突出した意見を述べてはならない……。……神仏に対しては敬虔な態度を維持し、神社仏閣でもそのような態度を示さなければならない。しかしどのような宗教にせよ、熱中してはならない。……」
 著者は冒頭から、「世間」のしくみを理解してもらおうと、このような調子で長々と具体的な姿を描く。それは、誰もが当然行っている生き方そのものである。あまりにも日本人の普通の生活を描いているために、むしろ読んでいて恥ずかしくなる。まるで自分のことが言われているような気がするからだ。
 実はこのように思わせるところにも、著者の意図がある。そして、恥ずかしくなってきたとしたら、それは著者の策が成功した証拠となるであろう。
 本は、最初のほうでは、万葉集や親鸞などの例を挙げている。実はこの親鸞、もっと取り上げる意味があるということを暗示してもいるのだが、あまり拘泥せずどんどん多くの実例を出しにかかる。日本に昔から伝わる怪異伝説のあらすじをただ並べているかのように見える叙述が続く。また、江戸時代の、どこかえげつないような心中物の紹介もある。著者得意の「世間」の話はどこへいったのか、と訝しく思えてしまうほどだ。そのうえ、論の展開は、次に歴史学とは何かという、歴史哲学のような議論に進んでいく。
 しかし、西洋歴史学をそのまま日本にもちこむことには決定的な問題が潜んでいることを暴く。そのことが、たぶん一番大声で叫びたかったことであるのだろう。学問の世界、大学の世界に暗黙の了解となっていることをはっきりさせていく。学問の世界も一つの「世間」であるに過ぎないというのだ。
 いや、私たち日本人が、自分で意識しようとしていなかろうと、間違いなく「世間」の中で、世間の人々の顔色を窺いながら生活している限り、そこに歴史学が成立していくことはできないし、歴史を活かしたり歴史と対峙したりする姿勢は生まれないと断言する。そのことが言いたくて、そのことへの情熱が溢れるので、この本が生まれたと言えるのではないかと感ずるほどである。
 著者の岩波新書の前著『学問と「世間」』も読んだことがある。著者の論旨は私にとって難しかったが、そのとき「世間」という言葉を取り上げたことの意味を、少なくとも私は重く感じ取った。私が言いたかったことの一部を、実に的確に捉えた言葉だと直感した。そう、人の顔色を窺うのは、世間の中に生きていることの証左なのである。
 日本人は、「世間」の中で生きている。そして、「歴史」とはその外を流れているものに過ぎない、という感覚をもっている。まるで劇場で見ているかのように、現実の「歴史」というものを眺めている。そこに自分は参加してはいない。日本人は、自身は歴史の中にいないという立場でいる――著者は、熱くそのように叫ぶ。
 私は歴史学というものは十分理解しているとは思えないが、この叫びには共感を覚える。いや、まことに膝を叩いて喜んでいた。日本人には個人というものが成立できないようなものがある、と著者が告げるとき、私の中にあったもやもやとしたものが、すうっと晴れていくような感覚があったのである。日本の上空には、とりとめのない、だが誰もがそれを避けることができないといった大きな力が蠢いていると、芥川龍之介ならずとも感じていたのだが、それがここで「世間」と呼ばれているもののことなのだろう、と絞れてくるようになった。
 歴史教科書の問題もある。だが、日本の中で新しい歴史教科書が必要だなどと嘯くグループも、この世間という枠の中でほくそ笑んでいるに過ぎず、自分の住む「世間」という世界の中から、「歴史」が流れていく外の風景を眺めているような構造の図式が成立すると思われている限り、それは「歴史」という美名を使っていても騙されてはならないという思いが、ますます強くなるのを覚える。
 はたして「世間」と呼ぶことで掴み切れているのかどうか、私は分からない。ただ、日常語の中のその「世間」という概念が、私たちを規定している大きな素因であるということは、ほぼ間違いないように思われる。
 日本人は、はたしてその「世間」という言語ゲームに没頭する中で、現実の歴史をエポケーするのが、特質となってしまっているのであろうか。
 これは注目すべき本だ。日本人が考えなければならない問題をずばり提供していこうとする試みだ。




Takapan
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