本

『礼拝を豊かに 対話と参与』

ホンとの本

『礼拝を豊かに 対話と参与』
今橋朗
日本基督教団出版局
\1400
1995.2

 月刊誌『信徒の友』に連載された記事をまとめたものだという。礼拝のひとつひとつのプログラムについて、あるいはもちろん礼拝とは何かという全体に関することについて、徹底的に「礼拝」にこだわった解説がなされている。
 えてしてこういうのは、通り一遍の、表面的な説明に終わるものだという偏見が、私にはあった。だが、この本は違った。慧眼などと評するのは私のような立場からは失礼極まりない表現なのかもしれないが、実に礼拝について深い洞察と調査がなされているものだと驚いた。実際私など、全然分かっていなかったのだという思いが次々と押し寄せてくるのを覚えた。
 礼拝の形式は、その中心にどんな筋を通しているのか。もちろん、神を礼拝するのだ、とか、まことの礼拝をするのだ、とか、私たちは漠然と知ってはいる。だが、それは極めて抽象的なのだ。語源や由来を知らない言葉を使っていると、どうしても誤解が入り間違った語の使い方をしてしまうことがあるが、それと似ている。礼拝には出ているし、礼拝の司式を務めることがあるかもしれない。だが、その奥深いところにはまるで入ったことがないし、入ろうともしなかったのだと恥ずかしく思えてくるのである。
 著者は、その問題に使命を覚え、実によく調べている。古代のありさまに迫るときもあれば、歴史の中でヨーロッパ諸国が解釈してきた姿を提示することもある。そのような大きな視野があるかと思えば、礼拝の招詞に相応しいのはどういう聖書の箇所であるか、というような具体的な問題にヒントを与えてくれる。讃美歌の選び方や、献金の意義と呼びかけ方など、毎週礼拝に出ているクリスチャンにとっては、「なるほど」とか「そんなふうに他の教会ではやっているのか」とか感心することしきりである。
 日本基督教団というところである故に、他系統の教会だと意味が分かりづらいところもあるだろう。違う習慣だと区別してしまう心の働きが起こる場合が多々あることだろう。だが、そんなことは小さなことだ。礼拝とは何か、聖餐とは何か、一つ一つのプログラムにこだわって、その意義を問い直してみる。それは私たちの礼拝を豊かにすることはあっても、貧しくすることはないだろう。私としては特に、CSへの強力なバックアップを感じたので嬉しかった。子どもたちを相手にしていても、それは礼拝の場なのだ、という意識は、私が実践していった中でつくづくそうだと感じたことの一つである。
 本の構成や分量からして、深く追究していくというタイプの叙述ではない。内容的にも簡潔にまとめているところが少なからずあるし、それはそれでよいだろうと思う。この小さな本からも、示唆されることは多々ある。私たちクリスチャンは、耳に美しく聞こえる霊的な書物は喜ぶかもしれないが、こうした事務的に思われるかもしれないこと、いささか形式ばろって淡々と解説していくように見えること、そうした点を軽く見てはならないと思う。
 この本の、全部が全部役立つとは思えない。また、もっとこういう点についての見解を知りたかった、と思わせることがないわけではない。しかし、この本の意義は間違いなく大きい。今も販売されているのだろうか。淡々とした説明の中に、熱い霊的な息吹を感じた私は、販売され続けてほしい本の一つだと感じた。




Takapan
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