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『礼拝を問い、説教を問う (説教塾ブックレット6)』

ホンとの本

『礼拝を問い、説教を問う (説教塾ブックレット6)』
加藤常昭
キリスト新聞社
\1800+
2007.9.

 加藤常昭氏を主宰とするグループ「説教塾」が、ブックレットと呼ぶには厚い立派な本であるシリーズを2004年以来発行している。その第一弾が「説教者を問う」であった。『説教論』をすでに出している加藤常昭氏が、そこで十分言えなかったこと、伝わらなかったようなことを、補う場に、このシリーズがなっているような観がある。そこでひとつの大きなテーマとなったのが、説教者の姿勢である。そもそも「説教塾」と言うくらいだから、教会の礼拝で説教する者がどうすればよいか、ということを考えることがメインだろうと思われるが、何度もその説教者自身をも問う機会が、このように展開されているわけである。
 今回は、礼拝論から刻まれていく。礼拝の中核に説教があるというのがプロテスタントの中心的な捉え方であるが、そこに聖餐を結びつけようとしている。というより、説教と聖餐は同じものの別の側面だというのである。広い見識に裏打ちされた著者だが、元来ドイツ系の神学者との交わりがあった。大学では哲学を学んでいるので、ドイツものを読んでいるはずだ。ドイツ語で通訳ができるほどであるのだから。だが、本書の時期になると、説教塾の内部の人からの影響もあるのか、アメリカ系の礼拝や説教というものの良さを強く覚えている様子が窺える。帰納的説教というと、そうではないだろうか。
 日本の説教のみならず、礼拝のスタイル、また組織のあり方などについても手厳しい批判がなされており、多くはきっとその通りなのだろうと思う。あまりに画一的に批判するところや、伝統的な礼拝や教義、とくに教会組織としての共同体の尊重について保守的な姿勢が強い面もあるが、それはそれで聖書に基づいて、あるいは伝統を大切にしてというところもあるから、外野がとやかく言うことではないだろう。
 また、哲学にも関係するところがあるだろうが、「パースペクティヴ」という概念で多くのことを説明しすぎるきらいもあり、この概念になじまないと、いまひとつ踏み込めない読者もいるのではないかと思われる。もちろん説教塾内ではこれはキーワードであって、知らないでは済まされないものだが、一般読者はどうだろうか。本書の中で珍しくこの概念について後のほうで詳しく紹介しているところがあるから、ここでは参考になるだろうと思われるが、どうしてパースペクティヴなどという原語で分かりにくく伝えるのかという批判に対して、ならば訳語を決めてみろとすごむところは、力を感じた。確かにこれは、一定の日本語にしてしまうと、誤解が生じるし、そこで言おうとしていることの一部しか表せない。視座であったり、見通しであったりもするし、私ならば、訳語としては使えないけれども、イメージとして見渡す「地平」をそこに感じている。いったいそこから何を見ているのか、何が見えているのか、という有様である。
 実を言うと、本書の執筆動機は、おそらく明確である。日本基督教壇が2006年に出版した『式文試用版』、これに噛みついた野である。これがけしからん、礼拝をなんだと心得ておる、という具合である。いや、それは戯画的かもしれないが、多分にそれで適切であろう。
 これにより、教会が寺院のようになっていないか、と責める。もちろんそれは蔑称である。葬式仏教と言われていたことがあったことをもじり、教会も葬式キリスト教をしていないか、というのである。
 恐らく毎週説教をしていわば生活の糧を得ているような牧師などの中には、本書を最後まで読めない気になる人もいることだろう。実に厳しい、きっぱりとした態度で責めてくる。年齢を重ねたことがそのズバリと言うことと関係があるのかどうか分からないが、話すときの温厚な声とは異なる厳しさが伝わってくるようである。自分がこうでも言わないと、教会やキリスト教世界は変わらない、との熱意からではないかと思われる。
 罪人を追い出すことに熱心であるような教会であってほしくない。そんな姿勢は著者のいつものことであるが、説教が命を与えるならば礼拝もまさにそうであり、これらは一つのものとして、キリスト者は神との交わりの中心に置かねばならない。それはまた、教会を愛しているということでもあると見える。だから教会を重んじなければならない、ということで、単なる個人主義ではない態度が目立つ各種の主張でもあったのであろう。
 このブックレットのシリーズ、ものによっては高値が市場でついているものもあるので、どこかで値が下がるのを見張っておくようにしなければならないのだが、今後も機会があれば読んでいきたい。ともすれば時代遅れのお説教がここにあるかもしれないが、それは伝統に根ざしつつ、なおかつ新しい命を求めている動きでもあると感じるからだ。事実、説教塾の関係者の説教を集めたものをいくつか読んだが、やはり質がいい。命を感じる。つまり、キリスト教の御言葉を語る説教として、間違いのない方向性があると見なさざるをえないのである。




Takapan
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