本

『礼拝における讃美』

ホンとの本

『礼拝における讃美』
福音讃美歌協会(JEACS)編
いのちのことば社
\1050
2009.6.

 21世紀ブックレットという、特定の問題に絞ったブックレットの一つで、シリーズとしては39番目のものということになる。キリスト教会が抱える問題を、テーマ毎に議論しようではないか、というものである。
 少し前の発行であるが、このたび、教会の讃美歌についていろいろ考える機会があり、求めて読んだ。
 その後、福音讃美歌が2012年に発行に至るが、そのための準備としてこのグループが形成された。新たな時代の、信仰に支えられた讃美歌を作ろうという意気込みであるが、何も新しい歌をそこに入れればよいというものでもなく、かといって古いままに集めてよいだろうかということもあるだろうし、その上これを礼拝に使うということになると、では礼拝における讃美というのはそもそも何であるのか、どういうものであるべきか、などと、考え直さなければならないことが多々出てくる。
 それはまた、聖書にどう書いてあるか、という点がまず問題になるわけだが、残念ながら、聖書にはそれが言葉で書いてあるに過ぎない。当時どんな歌が歌われていたのか、定かではないのだ。楽器も、言葉で書いてはあるが、どのような音色であるのか、録音されていて聞けるというわけでもない。歌い方も、ある程度文献の資料はあるものの、やはりよく分からないのだ。百聞は一見にしかず、ではなく、百の議論も一つ聞くに勝りはしないのだ。
 このブックレットでは、新たな讃美歌に挑む中堅のメンバーが、礼拝讃美について、とくにそれを黙示録の讃美をモチーフとして論じることから始まっており、さらに礼拝における讃美を大きく前進させたルター、礼拝全体に対してその後の影響の大きさからしても特筆すべきカルヴァン、霊的な讃美を生み多数の讃美歌を提供したウェスレー兄弟というふうに、プロテスタント教会の讃美の考え方の中核をなす歴史をたどっていく。そしてついに、コンテンポラリー・ワーシップという名で、至って現代的な讃美の状況を紹介し、新たな音楽世界の事実を伝える。それには、ことさらに持ち上げる気配もないし、批判的観点から取り上げているというわけでもない。このあたりのバランスが公平であるために、このブックレットの意義が的確だという印象を与える。本そのものが、先入観のように、読者に対して、これが良くてあれが悪い、というような見方を押しつけようとしていない点が肝要である。つまり、議論の種にすればよい、ということであって、いわば議論するための予備知識や前提となる事実について、互いに知っておこう、というような角度から、この本を作っていることがよく伝わってくるのである。
 最後には、日本のプロテスタント教会の礼拝と讃美とがまとめられる。これまで主に用いられてきた讃美歌の類が、いつごろどのように使われてきていたか、また何故改訂されたかといったような歴史を垣間見るような思いである。これは、このスタッフが新たな福音讃美歌を作るにあたりまず必要とした前提であることはもちろんのことだが、私たちがまた、過去の先人たちの努力や悩みを受け止め、そこから新たな一歩を考えていこうという姿勢のためには、どうしても必要だと思われる。私も、『讃美歌』の「雑」の項目の由来と揺れについて、そういうことだったのかとよく知らされた思いがした。そこには、ゴスペルの流れと、それをどう受け止めたかという、先の時代のキリスト教世界の重鎮たちの葛藤すら感じられるものだったのである。
 さて、もはや何の意味なのか分からずして歌っている感じさえする、古い讃美歌。他方、誰にでも分かりやすく同じフレーズを繰り返すという時の、どこか底の浅い響きの現代的なワーシップ。そもそも海外の長い詞を、西欧語とは違う音韻や母音のしくみをもつ日本語において、限られた音符に当てていくという訳詞の難しさを抱え、文語でないと収められないというような悩みも有しつつ、それ以前にとにかく訳しづらいという事実もある。それを踏まえて、たんなる感情ではなく、しかし礼拝に相応しいものとして、どう洗練されたものにしていくべきなのか、どう礼拝で用いるべきなのか。いったい礼拝で歌うというのはどういうことなのか、といったスタートの事柄も含めて、私たちは問わなければならない。そのために、こうした本ですべての役員ないし信徒が、讃美について学ぶということは、非常によいことであろう。
 ただし、そのためにはぜひ、この値段を、できれば半分近くにまで下げられないか、と提案したい。売れる市場が限られ、しかもなかなか買ってもらえないという、キリスト教関係の書物の問題も承知の上で、それでも願ってみたいのだが、皆が学んで知っておきたい資料のようなものとして、こういう本の値段が下がるならば、よけいに、すべての人が礼拝と讃美について考え了解していく大切な環境作りに役立つものである、とは思うのであるが、どうかよい方向へサイクルが回り始めないだろうか、と思う。摩擦が大きくて動き出すのには強力なパワーが必要であるが、一度動き出したならば、動摩擦力は比較的小さくて済むであろうからである。




Takapan
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