本

『礼拝学概論』

ホンとの本

『礼拝学概論』
由木康
新教出版社
\2625
2011.6.

 新教出版社は、興味深い図書をコンスタントに送り込んでくれるので注目する出版社である。決して安くはないものだが、専門的なものでも比較的手を出しやすいように配慮してあるように感じる。今回のものは、もう召されてから四半世紀を越えた著者の名著の一つである。今から五十年前に刊行されたものを、新たにこの時代にまた提供するというのはいくらか勇気の要ることであるが、逆にこの時代に必要だと強く考えるがゆえでもあるだろう。そのような出版の意図というものを考えることも、また楽しみでもある。
 礼拝が主題である。カトリックはもちろん、聖公会や主なプロテスタントのグループにおける礼拝の形式や考え方を探ることになるのだが、歴史の初めから順を追って調べ上げ提示してくれるところがいい。ともすれば、自分の都合のよいように、論者は、原始教会はこうだったとか、ユダヤではこうだったとか、はたまた教父時代はこうだったとか持ち出して、自分の考えを是として示したい誘惑に駆られる。だが、著者はそのように恣意的に決めることを認めない。もっと原理的に、聖書全体の醸し出す神の知らせからすればどういう原理が必要であるのか、それを考える。しかも、歴史上の礼拝の形式や捉え方を、大きな二つの原理の緊張の中に見ようとする点がユニークである。すなわち、預言者的精神と祭司的精神という二つの原理である。神の言葉を語り、聖書を説き明かすことに重きを置けば、預言者の伝統を担っているとになる。他方、ユダヤの祭司は、儀式を担当した。礼拝がただのお喋りでよいのだとする謂われは、旧約聖書の伝統からすれば、ないと言わざるをえない。もちろんイエスは、たんなるサドカイ派がよいとは考えていない。また、預言者を受け継いだかに見えたファリサイ派がよいとも考えていない。歴史の中でも、これらがつねにどちらを重んじるべきかの論争や信仰の主張が重なってゆき、時に一方に傾いては、バランスをとるかのごとくにもう片方の必要性が叫ばれるようになるなど、この両極の間揺れてきたのではないか、と著者は言う。
 この単純な捉え方には、全面的に賛成できない、とする人も多い。しかし、もとより礼拝がこれで把握され尽くす程度のものであれば、それはもはや礼拝とは呼べまい。神の思いは深く、広い。人間が操作するもの、人間が決めるようなことではないという前提があるはずだ。それでも、人が神の信に応えて神の礼拝に自己の真髄を捧げるものだとすれば、その重きの置き方に多少の傾きがあったところで非難するほどのことでもないだろう。
 しかも、やはり半世紀を経てきた書物である。その後のキリスト教世界の変化や出来事を踏まえていない以上、もっとこうすればよかっただろう、など口を挟んでみたくなるのも尤もである。それでも、本質において必ずしも古びたものだという印象を与えにくいのは、この本に取り上げられている事柄が、聖書や信仰の中心であるとともに、歴史的視点と各宗派における考え方の相違を可能なかぎり細かく執拗に述べているせいであるかもしれない。実によく調べられ、またその礼拝で唱えられる言葉までを説明し、また実際にその言葉を本に載せてくれてもいる。
 基本的に読者はどこか一つのものしか知らないであろう。敢えて客観的に自分の派についての説明に耳を傾けてみるだけでも、ずいぶんと得るところが多いと言える。広い世界を知る人の言葉は、狭い中でしか息をしていないような者には、羨ましいほどの味わいをもつものである。
 たんに著者の考えを伝えようとしているわけではない。できる限り客観的に、各派の礼拝を読者に知らしめようと、様々な資料を集める。歴史的な経緯についても十分読者に伝わるはずだ。
 著者は、「聖歌」の編者でもある。音楽に対する造詣の深さで知られているものだと思っていたら、このように神学の大きな課題にも取り組み、よい仕事を遺している。福音の種を撒くことにばかり目が奪われている、少数者としての日本のキリスト者であるが、その土壌のことをこそイエスは譬えで問題にしていたのではなかったか。礼拝という、信徒が毎週それに命を賭けて出席する大切な集まりを通して、撒かれた福音の土壌というものについて十分な知識と構えとを提供してくれる本は、意外と多くない。日本人はなぜ、などと懐疑的になったり、逆にひとりよがりになったりして、土壌を知るということについてはあまりよい傾向にあるとは言えないのが、著者が召天して四半世紀の日本のおよその空気ではなかろうか。
 専門的に関心がないと、手が出ない本ではあるだろうか。かつての名著を復刊したということ以上に、私たちの最前線に直接つながるものが感じられる、さわやかな一冊である。それは、著者のちょっとした言い回しや語り口調のもたらすものであるかもしれない。そして、私たちはいま一度「礼拝」とは何であるかについて、落ち着いて考える必要があるのかもしれない、と感じた。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります