『RATIO 思想としての音楽』
片山杜秀責任編集
講談社
\1700+
2010.11.
知らなかった。2006年に「別冊「本」」というシリーズが始まって、簡素な製本ながら、コアな思想がひとつのテーマの中に、たっぷりと盛り込まれている。その最初のときの出版社からのアピールには、次のような文がある。「RATIOは、そのような新しい思想の可能性を探り、吟味し、検証するために生まれました。今、来たるべき思想の時代を予見するかのように、日本にも世界にも、新しい思想の萌芽が見られます。若い言論が生まれつつあります。そのような、可能性に満ちた論考が自在に参集する場として、この雑誌が枢要な役割を演じられることを念じつつ、02号、03号と続けていきたいと考えております。」
いい意気込みだ。政治や国際情勢などをテーマとしながら続けられているが、これは2010年発行の、「思想としての音楽」という一冊である。音楽についての思想というのはどんなものだろうか、と軽い気持ちで手に入れてみたが、とてもとても大変なものだった。もとはといえば、ふとしたことで知った片山杜秀氏の著作を調べているときに、見つかったものだ。
その片山氏と菊地成孔氏との「巻頭対談」に始まり、中途で片山氏さんも加わったた「誌上シンポジウム」に始まり、片山氏と許光俊氏との「巻末対談」で終わるという構成になっている。それぞれの間に、いくつかの論文が掲載されていて、繰り返すが、どれもかなり内容の濃いものである。
プログレあり、黒人音楽あり、音楽と数理の関係あり、即興音楽とは何かという問題も論究されるなど、様々な角度から音楽に楔を打ち込もうとする意欲が強く感じられる。音楽と心理、とくに狂気との関わりを問うものは、もしかすると広く芸術について問うべき方法であったかもしれない。これは精神的に何かあるぞ、と誰もが思いつつも、それとは無関係に作品がいい、などと評価される。だが作品の評価もまた、鑑賞者の趣味による部分がある。果たして精神疾患は芸術作品に、どのような接し方をもつものなのであろうか。
とくに私は、当時まだご存命であった稲垣良典氏による、「神と音楽」という文章が気になっていた。カトリックの方であるが、八木重吉から始まったことに、好感を与えられた。やがてリベラル・アーツのひとつとしての音楽に言及する。中世哲学の碩学として、これを表に出すのは当然なのだが、音楽の中に「自由」の概念を交えて語るというのは、他の分野の方々にも、ひとつ大きな注目点となり得たのではないだろうか。同時に、そこにはプラトンとアリストテレスが通奏低音のように位置しており、そこからアウグスティヌスと、専門のトマス・アクィナスへと流れてゆくことになる。すると当然のことながら、タイトルのように「神と音楽」というフィールドに届いてゆかなければならない。神への賛美は、事実上音楽になっていたはずなのである。果たして私たち教会に集う人間たちは、音楽を本当に、神への賛美だとして握りしめていたであろうか。省みなければならない。
シンポジウムのところは、音の普遍性について意見を交わすものだった。イランやインドなどの音楽の常識について、自分があまりにも何も知らないことを痛感させられた。
その他、東西の音楽の習合を考えたり、トルコに目を向けるもの、レコードというものが何をもたらすか、それを、いかにも音楽的な「時間」ではなくて「空間」から問うというのは面白かった。日本のレコード歌謡の歴史を辿るのは、なんだか庶民的で親しみやすい気がした。
がっつり盛られた音楽についての様々な角度からの声は、音楽というものが実に多様な見え方をし、受け取られ方をするものだ、ということを教えてくれた。物事に詳しい人たちの話を聞くのは楽しい。こうしてまた、気ままに美しい音楽に囲まれた生活を過ごしていくことができたら、それはそれでステキなことなのだろう。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド