本

『教養としてのラーメン』

ホンとの本

『教養としてのラーメン』
青木健
光文社
\1550+
2022.1.

 あるわあるわ、「教養としての◯◯」という題の本。もう無数にあると言ってよい。その中で、ついに来たな、と思えるのが、この「教養としてのラーメン」である。そこに「ラーメン」が付いたのは、初めてではないかと思われる。
 確かに最初に、いくつかのカラー写真がある。ラーメンの基本ジャンルが20にわたり、紹介されている。こうして読者は、涎を垂らしながら、本文に入って行くことになる。
 しかし、中に入ると驚く。もう写真などない。イラストすらない。すべてが文字になってしまう。否、イラストが皆無というと嘘になる。ラーメンの系統の樹形図と、丼の柄のイラストがわずかと、器の形状のイラストがわずか、存在する。でもそれだけだと思う。
 用語解説のコーナーを覗いて、コラム形式で、見開きで完結する話題が次々と現れる。それだけである。だから急いで読もうと思うと、それなりに疲れる。読み応えがあるために、なかなか読み進めないのだ。
 しかし、本書について、店の紹介が欲しいとか、ラーメン通になれるような蘊蓄、あるいは論評を知りたいとか、そんなことを求めて読むと、がっかりする。なぜか。
 本書は、ひたすらラーメンを愛する人が、ラーメンを愛したい人に呼びかけるようにして、ラーメンをどのように愛していきましょうか、と提言するものだからである。
 つまりは、何々系がよいとか、何々は邪道だとか、そんな個人的な断定をかっこつけにやろうなどというものではない、ということだ。近くの店でよいではないか。ラーメンを美味しく食べよう、とひたすら肩を叩くだけで文章が流れていくのが分かると、それがだんだんと快感になっていくから不思議である。
 店の側の心、それに応えるための客の心とは何か。それは、評判ばかり気にして、いざ有名店に行ったぞと自慢したり、有名店は大したことないと自己優越を閉めそうとしたりすることとは違う。他人の評価を自分のステイタスと結びつけたいような輩が、ひょいとやってきて食べるばかりの評判の店がよいのか、そんなことはないはず、近所の人が毎度毎度やってきて味わう店の味は、どんなにか素晴らしいことだろう、と評するのが、この著者の心である。しかも、それは味が変わらないという意味ではなく、初めて食べたときとその後食べるときとでは舌の感じ方が違うはずだから、きっと店の腕も、客の舌も、共に上がっているのではないか、というような思いやりある解釈をも施す。
 ラーメン店は価格が跳ね上がらないが、それは長居しない暗黙のルールがあることと関係がある、などと説き、待っている客のことも考えようと提言する、この著者の心がけの素晴らしさ。つくづく、ラーメンを愛してやまない人の、ラーメンのための本である。ラーメンをどのような角度から、どのように見て、味わうとよいのか、愛で尽くすようなものを、随所から感ずるのである。
 スマホを見ながらラーメンを食べるのは、失礼なのだ。何かに気を紛らしながら食べる、そんな客にも愛想をつかうが、作る側は辛いのだ。注文されて作ったときに客がどこかに行って用事をしている。そのまま置いておくこともできようが、それでは、できたての味を食べてほしいという店主の願いが叶えられないから、仕方なく客が戻るときに新しいのをこしらえることもあるのだという。一杯はただの無駄になる。このような心で、つくるということを明らかにしてくれる著者は、ほんとうにラーメンを、そしてそのラーメンをつくる側の心、味わう側の心を、大事にしているのである。
 もちろん、日本全国のラーメンの特徴やそこで取材したこと、ラーメンの歴史についても調べたこと、もうなんでもござれ、である。そしてそういうのが「教養」だと、私たちはイメージするだろう。それはそれでよいのである。それも教えてくれる。味わい方のコツのようなもの、このように食べるとどんな味が強く感じられるか、へぇと思わせてくれるようなことも多々掲載されている。
 だが、行列をつくり待つところで騒ぐようなことをするな、それが店を潰すことがあるのだ、というような、怒りに満ちた内容を、優しくスマートに綴ることができる著者は、テクニックではない、ハートに満ちた文章家である。本人は、自分は文章の専門家ではない、というような言い方をする。藝術学部卒として、むしろデザイナーが本業であるのだが、どうしてどうして、文章は心で書くものだということを、見事に証明していると私は受け止めている。
 一人ひとりが、自分で楽しめるような形で、ラーメンを愛してほしい。その願いは、十分届いた。教養もあふれていたが、これは愛の伝道書でもあるのだった。




Takapan
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