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『レイシズム』

ホンとの本

『レイシズム』
ルース・ベネディクト
阿部大樹訳
講談社学術文庫
\990+
2020.4.

 価格は電子書籍価格である。ルース・ベネディクトとくると、日本では『菊と刀』であろう。いまなお発行され続けており、日本人論としての定番となっている。ベネディクト自身日本との直接的な接触がなかったにも関わらず、よくぞここまで調べたと驚くものである。すべてが適合しているかどうかは別として、尊敬に値するレポートであると言えよう。
 そのベネディクトがここに訴えた「レイシズム」は、菊と刀以前のものである。彼女は文化人類学者としてこれを著しているが、いまでこそ一つのキーワードとなっている「レイシズム」は、彼女の使用により拡がったと考えられている。この問題についての嚆矢であり、そこでの主張は決して古びていないどころか、いまなお解決されていないとも言える。1940年の本であるから、80年を経てこうして私たちが邦訳で手軽に手に取るようになったのだが、それだけの勝ちはあるとすべきであろう。
 当時はもちろん、ナチスドイツが全盛であり、ファシズムがヨーロッパを席巻していた。そこに「人種」を区別することは無意味だ、と正面切って論じたのであるから、下手をすると時流に反し、危険であったのではないかとすら考えられる。アメリカにおいてすら、人種差別という理解から抜け出しているなどとはとても言えない情況であった。
 しかしただ印象から感想を述べたわけではない。歴史的、地理的に根拠を問い、それが偏見であったり、科学的にも意味がなかったりすることを、一つひとつ明らかにしていくのである。もちろん、それは人種だけに留まらない。国歌とは何か。言語が異なるから人間は異種であるのか。宗教により人が差別されてよいのか。だか人間は、これらを根拠にして勝手に互いに疎外し合い、また時に他者を虐げているではないか。
 その差別主義者・レイシストたちの主張を取り上げて論破していく様は、勇ましい。私たちもその俎に載せられているような気持ちになってくるほどであるが、これはまた、ベネディクト自身が、レズビアンとして差別を受けていたことが関係しているとも言われている。
 それにしても、当時のものとはいえ、頭部の縦と横の比である頭指数というものがまた差別と偏見の根拠になっていたらしいことは、そのために多くの頁と叙述を費やしていることから窺えるのだが、ひとは何か他者と自分たちとの区別をしようとするときには、何でも使えるものは使って正当な根拠にしようとするものだということを感じる。
 このレイシスト、私たちから遠く離れた他人事なのだろうか。それだったら、「どうしたら人種差別はなくなるだろうか」という最終章の問いは、全く欧米人だけの問題であって、いまの日本人には関係がないことなのだろうか。確かに事例は欧米の問題が取り上げられていたとも言えようが、科学でさえもレイシズムのために利用するという魂胆は、私たちも無縁でないばかりか、いまここで私たちもやっていることにほかならない、という自覚が必要なのではないだろうか。つまり、彼らは彼らの歴史の中での失敗を取り上げて問題を指摘しているだけなのであって、それは人類の凡そ普遍的な問題であるとすべきではないのだろうか。
 最後のところでは、宗教裁判が取り上げられている。異端審問などであるが、宗教は自らを正義とすることのできる、恐ろしい力をもっている。これが一旦ある存在を敵とし、神に敵対するものだと定めてしまうと、自らは正義の味方としてどんなことでも許される者となってしまう。いわば自己義認である。しかし、科学とて、そのようなものとは関係ないわけではない。ベネディクトは幾度も、「科学」というものについてのお粗末な理解があることを指摘する。ひとたび多数となると、少数を押え込むことが正義である、と多数が定めてしまう。
 いったい、何が差別をするのだろうか。私たちの内に、である。それは何か。もっと私たちは見つめなければならない。自らの内に問いかけ、そこに問題を見つけなければならない。だから、おそらく「人種」が鍵なのではない。ベネディクトはドイツの現状を懸念している。いったい彼らの目指す第三帝国とは何か。私たちはそれをもたないと言えるのか。ユダヤ人ばかりでなく、黒人問題としても、アメリカはそれを抱えている。ただ、それは思想的にだけ解決されていくべきものではない、とする現実的な視野が、私には眩しい。少数派をも守るのは適切であるが、少数派だけを考慮すればよいのではない。広く市民一般を支える政策が必要である。当時、世界恐慌を目の当たりにしている。経済的行き詰まりが、レイシズムを助長さえすることをベネディクトは頭に置き、対立をなくすためには、共同の利益のために人間が協働することだと提唱する。ここに、ホスピタリティの道を見出しているのは、世界大戦をやがて迎える世情の中で、ひときわ目立つ光となっている。
 たんに非難をしているのではない。レイシズムは現にあること、どこにでも誰にでもありうることを指摘すると、これのない世界を想定し、それを実現するには何が必要なのか、これを提言する。世界大戦後にこれを言うのは簡単だったかもしれないが、その前にこれを提言しているというのは、やはり慧眼と見なすべきではないだろうか。そしていまも、私たちが果たせないままでいるこの問題を、痛感するべき時が来ているのではないだうろか。




Takapan
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