本

『ラビの聖書解釈』

ホンとの本

『ラビの聖書解釈』
ジョナサン・マゴネット
小林洋一訳
新教出版社
\1785
2012.2.

 副題に「ユダヤ教とキリスト教の対話」とある。
 西南大学において、2010年に行われた、客員研究員としてのユダヤ教の教授の講演とシンポジウムの内容をまとめた本である。というからには、この教授は、ユダヤ教の中でもキリスト教など他の宗教との対話や関係を重視するグループに属することになる。ユダヤ教の中でもいろいろな立場や考え方があるのだ。キリスト教側が偏見でもつとすれば、新約聖書のファリサイ派、またはサドカイ派がユダヤ教の姿だ、などと思いこむことがあるだろうが、それはとんでもない誤解であろう。あたかも、古代ローマ人と同じ考えを今のイタリア人が持っている、などというかのようだからである。
 いくつかのテーマで話されたものが載せられているが、やはり帯にも採用されたように、アブラハムが神のテストに合格しなかった、という点は目を惹く。これはキリスト教世界では、信仰の父として立派な振る舞いとして見られる、あの息子イサクを献げようとする出来事を指している。もちろん、それはアブラハムが無茶をしようとした、と理解する解釈者もいた。しかし、概ね、そこには意味があって、深く考えればその信仰が讃えられるべきだという説教は世の中に多い。特にプロテスタント教会では、ルターの掲げた「信仰のみ」の焦点であるため、これにケチをつけにくいという事情を覚えるのかもしれない。だが、ラビの伝統は違う。そこにはラビの言い伝えも大きな影響を及ぼすが、それはなにも「聖書のみ」に反するというようなレベルで捉えられるべき事柄ではない。要するにユダヤ教世界での懸命な研究結果が積み重ねられているということである。だから、そこにいわゆる「集中構造(囲い込み構造)」を見ることなどは、一般のキリスト教世界では蔑ろにされている大きな意味合いなのであって、そのような形式で見事に調えられている聖書の記事を、あまりにも自分たちの側に引き寄せて解釈しているとさえ見られることになってしまっているのである。
 他に、十戒やルツ記についての講演を並べ、またこうしたラビ的解釈そのものについての説明も施されており、最後に大学におけるシンポジウムの質疑応答のいきいきとした交わりも再現されている。
 さらに大きなポイントは、この宗教間の対話ということについての教授の講演である。イギリスやドイツで研究を続けてきた著者が、対話がないことこそ危機であると捉え、それも一般的言明というよりも、自分自身の生き方や体験を基にした生き方として対話を始めることの重要性に注目すべきだとしているように、私には見えた。
 一つ苦情を申し上げると、「ラビ」とは何か、説明らしいものが一切ないように見えたことが残念である。普通、「まえがき」で触れられるものだろう。西南大学の先生方にはあまりにも常識であるために、読者には必ずしもラビが正確に何を意味しているのか、またそのラビが聖書を解釈するということはどのような意味があるのか、についてのちょっとした解説をも必要なしと断じてしまったのだろう。また、ラビをも知らない人がこの本を手に取るとは想定していなかったに違いない。だが、イエスとは、パウロとは何ものであるのか見当もつかない人が聖書についての立ち入った本を読まないのとは少し事情が違わないだろうか。聖書を一通り読んでいたとしても、ラビ、特に現代におけるラビというものがどのようにして資格が与えられ、どのような考えの人々であるというのか、知る機会はまるでない。「ユダヤ教とキリスト教の対話」という、興味深いテーマを副題に掲げている以上は、タイトルにある「ラビ」とは何だろう、という人への配慮は必要だったのではないか、と私は思う。必要ないと言い切るのであれば、それは誤った学者意識でしかない。あるいは、西南大学の関係者だけがこの本を手に取ればよい、という学術雑誌であるのを間違って出版した、としか思えない。
 私が個人的に印象に強く残ったのは、ユダヤ教徒が、現代では律法に対してどこか(語弊があるかもしれないが)ごまかしをやっている面があるという、正直な説明である。安息日には車を運転することはできないはずだが、シナゴーグへ車で出かけ、しかしシナゴーグから見えないところに車をとめること、またその帰りにたくさんの買い物をして帰ること、これはもう暗黙の了解のようなものであって、そうした中で概ね律法を守って生活しているとしていたというのである。これはまさに、キリスト教徒も日常的にやっていることではないだろうか。ユダヤ教もそうなのだ、と知ったとき、私はユダヤ教と非常に近いところにいるような安心感を覚えた。もちろん簡単に近寄れるものではない。むしろキリスト教の側に、ユダヤ教に対する負い目のようなものがありすぎる。しかし、対話は可能であるし、また対話しなければならない、というふうに、思えるのであった。




Takapan
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