本

『職業としての小説家』

ホンとの本

『職業としての小説家』
村上春樹
新潮文庫
\630+
2016.10.

 小説というものを読まなかったわけではないが、日本の現代作家は意識的に避けていたのだろう。話題になろうが評判が良かろうが、その世界に浸ろうとしなかった。村上春樹という名前を知らないはずはなかったのだが、その考え方は噂のようなものとしてしか耳に入ってきていなかった。それがあるきっかけで読んでみたら、何か分かりやすいものを感じた。そして小説の書き方や文章論などは私は多く読んできたので、村上春樹がそれを書いていると知り、今回読むことにしたら、驚いた。私はたぶん、この人と友だちになれる(してもらえるとは言っていない)、と思った。私が小説について考えていることが、がんがん綴られているのだ。違うのは、結局私が小説家にはなれなかったということくらいである。そして文学作品の読書量がまるで違うということと、私は英語が堪能ではないということであろうか。
 だいそれたものの言い方をしたのだろうが、それくらいに、この小説家についてのかなり長い講演(ほんとうに講演したのはひとつだけだがその原稿のように書いたと説明されている)を聞き続けても、終始、そうだよね、と頷きながら残らず分かるよと叫びたい気持ちのままに読み進み、そして読み尽きてしまったのだ。
 一部は雑誌に連載されていたもので、あとはひとつの講演原稿を除いて書き下ろしであるという。これがまた、小説を実際に書くことを試みたことのある者には痛いほど分かる言葉で書かれてある。恐らく書いたことがなければそこまでは分からないであろう。実歳に野球をプレイしたことがあって初めて、野球技術の説明に合点がいくというようなものである。もちろん、それは言葉による営みであるし、ひとつの生き方のようなものでもあるから、とくにハルキストたちには、その作品のどこに関係しているかなど、しみじみ分かるものであるかもしれない。
 それにしても、自身について著者がこれほどにあけすけに話すという機会は、あまりなかったということであるから、ファンにとってはたまらない一冊ではないだろうか。かつて何々を書いたころの心境や生活がどうであったか、毎日どのように執筆活動をしているか、どういう人に会ったらどういう風に感じているか、批評をどう受け止めているか、そんな一つひとつのことが、全部つながって見えてくるのではないだろうか。私はそこまで作品については知らず、幾つかの本を読んだ程度であるから、一部についてはなるほどと思えるが、そのすべてが作品と結びつくというような読み方はできなかった。それでも、十分楽しめた。
 小説家一般についても書いているが、もちろん推測である。それは自分という小説家が、職業としてそれを受け止めて歩んできた中での印象でもあるだろうし、自分自身のことだけを言っていることになっていたかもしれない。ただ、その中で自身いろいろ考えてきたこと、心がけてきたことが、様々な形で吐露されている。文学賞、オリジナリティ、長編小説のこと、学校への考え、登場人物の描き方、執筆の目的、海外へどうして出て行ったのか、そんなことが隠すことなく語られている。これは村上ファンに限らず、おいしい話題である。少なくとも、小説を書くということがどのようなことか、少しでも知る者については、あるいは小説を読むのがたまらなく好きな人にとっては。
 非常に正直に書かれてあると思う。包み隠さず語っていると思う。だから恐らく作品と照らし合わせても、嘘がなくつながっているはずである。もしここに嘘を並べているのであれば、作品を知る人にはすぐに分かるはずだ。だからまた、好感が持てる。自分の中の深いところに潜っていき、普通だったらそんなにいじらないところをよく検討し、かき混ぜて、苦しいことだがそれを拾い上げて言葉という形で出していく。小説という芸術形態が、ひとつの時間軸に沿ってのものであることを弁えたうえで、そして言語というある意味で不完全なメディアによって、ぶつけていくのであるにしても、それを費用なり時間なり、なんらかの犠牲を払って受け止めてくれる読者が楽しめる、あるいは考えてくれる、少なくとも何かしら心に残っていくような場を提供する喜びに貫かれたものであるために、日々自分と向き合い、見出せるものを拾い出して形にしていく。そのためには体を鍛えることが如何に大切であるか、という点を強調しているのもユニークであった。確かにその通りなのだ。
 本書の文体としては、括弧が多様されている。一旦言い放った言葉も、但し書きが必要であるという場面は、日常たくさんある。ただ小説の中ではそれはひとつの技巧となるので、あまりに多く用いるのもどうかという気がするものであろう。それをこの、自分の小説を生みだすという精神的な核心にまつわる叙述をするにあたっては、惜しみなく括弧を用いて様々な配慮を示す。その気持ちは分かる。なるべき正確にものを言いたいし、誤解をされたくないのだが、言葉は2つの述語のうち、どちらか1つをとってまずは示さなければならないのだ。でもオルタナティブなほうを見ずに素通りしてもらいたくもないし、それを無視しているわけでもないのだから、傍流にでも触れておきたい、といった心情は痛いほど分かる。そしてこの姿勢が、ひとつの言葉で小説を描くとき、その行間なり余韻なりの中で読者に伝わっていく、本来の味となっていくはずのものであるわけだ。
 とにかく楽しかった。本書にいつまでも浸っていたかった。快い流れが体の中を通り、足もとを動かしていった。一度読んだだけではもったいないので、文庫のほうを購入してよかった。いつでもポケットに忍ばせておくことができるのだから。




Takapan
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