本

『力ある説教とは何か』

ホンとの本

『力ある説教とは何か』
H.J.クラウス
佐々木勝彦訳
日本基督教団出版局
\1300+
1982.4.

 下賤なところから入るが、144頁のB6サイズで1982年にこの価格は、ひどく高かったはずである。いまこの値段でもおかしくないし、私などはいまそれでも高いなぁと買うのを躊躇うことだろう。
 古書としてもちろん探した。著者の名を別の箇所で知ったからである。説教論はもちろん大部のものもあるが、このような薄手のものもいい。テーマが狭くまとまっているので、読む方としては分かりやすい。ひとつのことを理解すれば読めたことになるのだ。それは「全権」という言葉であることは明らかだ。この、幾分聞き慣れない言葉が、一冊の全編に漂っている。神のあらゆる力と権威がのしかかってくるというようなニュアンスで使われている言葉なのだろうか。命を与える説教であるとか、ひとを生かす説教であるとか、そのあたり読者一人ひとりが神との関わりの仲で理解すればよいのではないかと思う。
 原書は1966年に出版されている。この頃からすでに、説教の危機が懸念されていた。そこから半世紀以上を経た今となっては、なおさらのことであろう。説教に命がない、神の言葉として語られていない、そんなことももはや当たり前になってしまったとすれば、悲しいことだ。説教というものに対する考えや期待、また置かれた時代状況というものはその都度変わっていくけれど、神の言葉を説く語りは、二千年の歴史の中で絶えず繰り返されてきた。何もこの本が書かれたときだけが「説教の困窮」の時であったわけではない。しかし、現代性を帯びたこの時の危機感を、私たちはもって共有してよいはずだ。いまも同じ問題を抱えているということがきっとあるからだ。
 クラウスによると、この当時、解釈学と説教学の発展が決定的なことを見落としていた、あるいは妨害をしていたということになる。それが「全権を与えられて説教すること」であるという。
 聴く者は、キリストに出会うのでなければならない。それを目標としないことには、説教は語られる意味がない。その出会いは、出て行くことの内で起こる。そのために人から聞き、人の許へ出て行く。そこで語るためには、語る者は十分な黙想、すなわち神の言葉を聴くための時間を費やさなければならない。自分の中から何か話したいことを探すのではない。神から受ける、それを待つ。聖書は学びの書などではなく、常に生きた言葉がそこから与えられ続ける命の書であるはずである。冷たい思想など要らない。求めるべきは、生命である。
 説教者がまず出会う。聖書の言葉により変えられる必要がある。そしてその圧倒的な力を証しすべく語り始めるのだ。そこには神から与えられた全き権威があり、力がある。人々の不安を知りつつ、神の憐れみをそこに覚え、世界を完成する神と出会うことでこそね罪の赦しと救いをもたらすことができるのである。
 これが教会である。「神の御業を聴くことにおいて全世界を統一する新しい言葉、聖霊が語る新しい言葉が述べられるところ」である。それは、人々を目覚めさせる。全権を有する説教は、暗闇に光をもたらし、人々を目覚めさせるのである。
 しかしこれは、語る側だけに責任が寄せられるべきものではない。会衆の一人ひとりが、神の証人であるべきである。神の全権が、聴く者に与えられ、一人ひとりが証人となっていく。説教を、聖霊を求めつつ聴くという責任が、私たちに委ねられているのである。そのとき私たちは自分の中の小さくて弱くて空しいものが、神の力に満たされて、まさに神の国を告げるべく役立てられていることを知るだろう。神の救いが支配することにより、自分という人間的なものは無力になる。そのとき私たちは、自分というものが解放され、新しい世界をつくる道具として用いられるであろう。それを実現するのは、御霊である。新しい言葉をもたらし、新しい歩みを始めさせる。
 ルターやカルヴァンを始め、ドイツなどの説教者の言葉を時折交えながら、軌道がぶれないように、著者は私たちは一途な道に導いていく。いったい、有限な人間なるものが、無限な神の言葉を語ることができるのは何故か、という哲学的かつ神学的な問いを懐きながらも、その根拠を「全権」なるものに置き、理論の書のように聖書を扱うのではなく、聴く側もそこに参与する者、責任ある者として自覚させることにより、神の言葉が語られる教会全体が、神の国のひとつの実現として機能していく姿を確かに見つめている。その中でカリスマということも時に強調されるが、純粋に賜物という意味で用いているので、熱狂的な意味に解してはならない点は気をつけておこう。
 私たちに必要だという「全権的説教」という著者の提言は、いまそのままの言葉で盛り上がっているようには思えない。しかし、言っている中身は同じことが求められているような気がする。神の言葉が権威をもち、現実となって働いていくことは、聖書が書かれていた時代にはあたりまえのように現れていた、そのように少なくとも聖書の記録からは窺える。多少誇張はあるにしても、私たちはそれらの記事に隠された、神の言葉への信頼とそれにより与えられもたらされる絶大な力というものに、いま改めて注目しなければなるまい。したり顔で醒めた顔をしたまま、聖書をおかずのように解釈する対象としてしか見ないことがある現代の知識人に、多くの人がなびいていこうとしている。しかし神の言葉は命をもたらす。自分の問題として、キリストと出会う場において言葉を受け止めることがなければ、それはただの思想であり、知識でしかない。こうした懸念を克服するために、もしこの「全権」というものが提言されているのであるなら、私もまたその主張に参与したい。聖書は命をもたらす言葉である。ひとを生かすものである。私は、そう信じてならない。




Takapan
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