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『ポストモダンの新宗教』

ホンとの本

『ポストモダンの新宗教』
島薗進
法蔵館文庫
\1200+
2021.5.

 文庫としての発行は2021年だが、元の本は2001年に書かれている。本書に挙げられている現代宗教の情況については、そこのところを弁えておかなくてはならない。1980年代、90年代の宗教運動、宗教意識の動向である、と「文庫版あとがき」で著者は断っている。このような分析は、20年後に文庫にする、というのは勇気のあることだろう。自分が指摘したことが、20年後には虚偽となってしまった、という危険性があるからだ。現在を動く教団は、その後変化してしまうかもしれない。
 実際、オウム真理教が1995年に、あの地下鉄サリン事件を起こし、大逮捕劇へと至ったことを本書は踏まえているが、オウム真理教を事前に大いに称えていた宗教学者もいた。それどころか、事件発覚後も、オウム真理教をしばらく擁護したのだった。
 それはともかく、ここで比較対照されているのは、伝統宗教もではあるが、いわゆる新宗教である。本書がターゲットにしているのは、「ポストモダン」の世代であって、江戸末期から明治の頃に多く生まれたものとは異なって、「新新宗教」などとも呼ばれる世界である。また、その時代背景との結びつきを示すことにより、精神状況の何がどう反映されているのか、という点を見出そうとしている、とも言える。
 各地で論じてきたものを集めた論文集というよな体裁をとっているので、比較的自由に読者は選んで読むこともできる。また、時代順に並べられているわけでもないので、いっそう、関心のあるところから読んでゆけばよいのではないかとも思う。それでも、一定のまとまりや構成を考えて編集してあるので、私はこういうときには基本的に並べてある順に読むことにしている。
 サブタイトルに「現代日本の精神状況の底流」と掲げられており、表紙でもかなり大きな文字で、しかも色を変えてこれが目に入ってくるようになっている。
 序章は、やはり最初に読むべきである。ここには、「新新宗教」という言葉の指すものについて、一定の定義を行っている。鍵は、1970年代以降である。特に、オウム真理教のときに「カルト」という言葉が飛び交ったのだが、それは明らかに非難の意味をこめて用いられている。ここでは2000年頃のデータを最新として、信徒数の変遷を一覧表にしており、ちょっとした資料として用いることができそうである。
 特定の宗教団体も当然繰り出さなければならない。扱いが難しいかもしれない。あくまでも学術的な記述であり、学術的な論評であるため、事の是非をここで明らかにしようという意図はない。が、本心としては、たぶんいろいろ言いたいこともあるだろう。しかし著者は禁欲的にこの仕事に相対しており、私たち読者が、ここから先の評価を団体に対してすればよいだけのこととであろう。
 ここでは、それぞれの新宗教の教義を紹介したり、教義を評価したりしようとしているわけではない。ただ、社会的な、あるいは精神的な背景を考察しようとしているのであって、まさにだからこそ「日本精神状況」という言葉を表に掲げたのだ。
 もちろん、必要に応じてその教義は示さなければならない。それでいて、同じ時期の宗教の特質を見出そうとするわけで、宗教学者の研究意義はひとつにはその点にある。新宗教では、自分の心への問いが大いにあり、心を直す、という傾向がどうしても見られるそうだ。それは、家庭の和合のような目的や意図を含むことが多かった。だが、新新宗教では、より個人主義的に傾いており、また、社会と隔離的になってきているのではないか、と指摘する。こうした指摘は、どこまで適切かどうか、個々の団体にはどうだか分からないけれども、私たちにハッと気づかせる役割をもっていると思う。決めつけはいけないが、人がどのようにものを考え、感じるか、ということは、徐々に変化するため、またその中に私たち自身も含まれて自ら変化しているために、気づきにくいものなのである。
 特に、若者に対しては、今後の社会が大きく関わってくる。近ごろの若者はどうとか言うつもりはないが、宗教について無防備な制度を抱えている日本においては、宗教の与える影響は小さくはない。伝統宗教に収まらない若い世代が、思いつきからくる自己中心的な宗教に毒されてゆくと、体よくその兵隊に帰られて服従してゆく人間につくられてゆくかもしれない。それは操っている側も意識していないような形で、洗脳活動を邁進してゆくことにさえなるのである。
 そのためには、教育の影響は大きい。宗教についての学習がなされない中で、エリートたちが人生を狂わせるまでに呑み込まれていった、オウム真理教が適切な例になっているとも言えるが、その問題は根本的に解決はされていないし、検討すらされていないと言える。だから、恐ろしい。
 犯罪性を指摘するのに、旧統一協会すら、法的には難しいのだ。宗教という隠れ蓑を用いて、政治的な目的さえ、法を超えたところで正当化してしまう恐ろしさの中に、簡単にのめりこんでゆくような危機に対して、伝統宗教が殆ど何もできないというのは、悔しい。
 本書では、オウム真理教の悪についての考え方の危険性を指摘することもきちんとやっている。が、エホバの証人の問題にも光を当てる。否、そこへは社会問題化していたために、注目しなければならないのではあるが、閉鎖的な団体行動は、精神的にも同じ傾向をもち、外からなかなか手出しができないという事態になっている。他方、GLAの影響を強く受けて発生した幸福の科学については、複数回詳しく扱っており、特に世俗的価値への徹底的な批判という側面があることを強調している。
 だが、その後20年の中で、幸福の科学は、オウム真理教とはまた別の角度から、暴走をしてきた。本書には、その部分が反映されていないのが惜しい。改訂版としてでも、その点を扱ってほしいものだ。オウム真理教が、政治的な活動に出て、国政選挙で誰からも顧みられなかったことが、殺人行動の正当化を思い立ち、暴走していったことは、ほぼ確実である。幸福の科学も政治運動に力を入れている。しかも、オウム真理教と同様に、大きな選挙の議員の当選には至っていない。但し、小さな市長さんでは、議員の当選者を少しずつ出しており、しばらくはその路線でどうにかして議員資格を獲得していきたい様子ではある。
 また、学校設立をも目論んでいた。著書を販売すること、しかも信者には本を買って配れということで、教団の収益を合法的に膨らませたことで膨大な利益を上げたことで、なんでも可能と計画したようだが、思いつきの偏った教義を教育するということは、学問的に認められなかった。それならそれで、どうして仏教を研究する大学や聖書を学ぶ大学が赦されて幸福の科学は駄目なのか、とかみつくこともあった。
 問題は、その「霊言」である。イエス・キリストの心などを勝手に都合の好いように騙る本を出しているのは論外だが、信者はそれを信じるようになるものだろう。一般にも売られているので、聖書の真実はこうなのだ、などとデマを信じてしまう虞もある。もちろんキリストだけではない。一般の人が知るような、ありとあらゆる人物が、実はこう考えているのだ、というのは、まともな人間のすることではない。そればかりか、存命の人物についても、その霊はこのように語っている、などと本にするのは、肖像権以前の酷い迷惑な話である。ついに天皇の霊はこのように、などとも出していて、よくぞ黙って世間はそれを比した。見ているものだと不思議に思う。
 ばかばかしくて誰も訴えないようでもあるのだが、それは信じる者しか相手にしないために、法というものは、必ずしも訴えが通るとき限らないそうなのだ。本書が文庫になるまでの20年の中で、その教祖は死んだ。教団が今後どうなるのか、その教義はどうなるのか、まだ流動的である。社会問題を扱うのが本書の目的ではないから、その問題を問うべきではないのだろうが、統一協会とは違った形で相当な財産を有しており、法的なガードも相当強く張っている教団は、教祖のいない中で、今後何を計画し、何を巻き起こすのか、放置しておいてよいはずがない。
 なお、本書の中では、梅原猛に触れた部分もある。その哲学に端を発した形で、政治的な背景も有した上で唱えた「日本教」は、必ずしも団体形成となったわけではないが、見えないところで他の宗教や宗教的風土のために、バックボーンとなっている可能性はある。
 そもそもが、日本人のDNAに染みこんだかのような宗教的基板がある、とも言われる中で、理論的な力を以て強く出てくる宗教の世界には、不気味なものがある。宗教が、自身をつねに反省するところから始まるかと思いきや、宗教だから自分は正しい、という強気であることが、権利意識や法的理由を伴ってくるとき、個人の信仰にも恐ろしいものが伴いかねないし、逆にまた、無言の力をもって支配してくる空気のような精神風土も、知らず識らずの間に日本社会を覆い支配するものがあるとすれば、本書のような冷静な指摘は、もっと多くの人の間でシェアされなければならないものだ、とつくづく思う。




Takapan
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