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『ポストコロナの生命哲学』

ホンとの本

『ポストコロナの生命哲学』
福岡伸一・伊藤亜紗・藤原辰史
集英社新書1085C
/\840+
2021.9.

 ポストコロナを冠する類書はたくさんあるが、これはたぶん抜群のものであると思う。尤も、経済の動向にしか関心がない方にとっては落胆するだろう。人類文明の行く先を、冷静な眼差しで見つめる、現代的な哲学の観点から学びたい人にとって、抜群だということだ。
 かつて『生物と無生物のあいだ』が広く読まれた福岡伸一氏。そこで直接扱う暇はなかったが、扱うことも可能であったと思われるのが、ウイルスの存在である。そのウイルスが、新型コロナウイルス感染症の拡大するパンデミックの世界の中で、主役となっている。ウイルスが何故生命と呼ばれないか。だとすると、ウイルスというものは、パンデミックの中で人間たちが悪の権化のように呼んでいるのは間違っているのではないか。
 適切に、ウイルスというものについて知ることが必要である。私もこのコロナ禍の中で、何冊かウイルスや免疫システムについて本に触れ、学んできた。それを踏まえていると、本書の福岡氏の説明は面白いような分かる。ただここではコンパクトなものであるので、免疫構造のことをあまりご存じでない方が読むとき、どのように心に仕舞い込まれるか、私には実感できない。
 ウイルスの存在を肯定する中で、それに対して人類がどう対処し、どう考えていくべきかについての指針として、大変重く現実的な知恵を与えてくれるものと見た。少々新規感染者数が減れば、経済や政治の現場と共に一般の人々も喜ぶことであろうが、こうした知識がないと、何度も波をかぶることになるであろうことは、過去のパンデミックの実例から明らかである。ウイルスは、人が動けば拡がることがはっきりしているからである。
 続いて、美学という分野ではあるが、障害とからだの人間における意味を追究し、また「ふれる」という言葉についてずいぶんと深い思考と体験を重ねてきた、伊藤亜紗氏。私は密かにファンである。それから藤原辰史氏についてはこれまで知らなかった。歴史学者であり、特に農業にまつわる研究が優れている。この三人の提言を、NHKが2020年夏にひとつの番組として形にした。さらに鼎談を、本書は後半に載せた。それぞれの着眼点が交わり、まとめられ、3倍以上の効果をもって輝いていくのを私は感じた。
 やはり福岡氏のキャリアの長さ故なのか、その提言する「動的平衡」という概念が『』を握りつつ、さらに定式的な法則として、「ロゴスからピュシスへ」という注目点により、本書は編まれていると言えよう。今回、後者についてその意味を少し描こう。
 人間はこれまでピュシスからロゴスへという近代化を迎えてきた。自然から論理へ、とひとまず説明しておくが、ギリシア哲学における概念を凡そ掴んで戴ければ話には加われるだろうと思う。本書でもいきなりこの概念から始まるから、お読みになる上では問題はない。
 自然なる人間の姿、生き方、そして命。しかし近代思想は、論理や科学を重視するようになり、その構築した文明を誇るようになった。確かにそれは生活に便利さをもたらしたし、効率を高め、人類に幸福感をもたらした。だが、それは一部の人間たちのものでしかないかもしれないことは、私たちの社会を見渡すときに気づくべきことであろう。
 福岡氏のもたらした軸が掲げられた後、二人はそれぞれの持ち味を出してくる。すると不思議なことに、それらが束ねられていくようなことになる。伊藤氏は先に挙げた「ふれる」から、自己責任論という口先の道徳は、安易なコントロールを掲げる中で、信頼を失い、障害者を全く解さないような社会への批判を呈する。定式化されないけれども、信頼と創造を拓く倫理ということを重視しなければならないとする。
 藤原氏は、歴史と文明からのこのパンデミックの意味を説明し、危機の時代と戦争を正当化することの関係や危険性に警告を鳴らすのだった。私たちが身の回りのものしか見えず、知らない中で思い込む正義が如何に危険かが伝わってくる。歴史の中でどうだったか、いま世界ではどのような考えに基づき、どのような対処がなされているか、それをマクロに知る経験をするだけでも、ずいぶんと違ってくるものであろう。
 鼎談のほうが、これら三人の提言より分量が多くなっているが、話題はまず「風の谷のナウシカ」から走る。どうやらその全集を、藤原氏と伊藤氏が共にもっているのを、NHKのディレクターが発見したところから、この話題が持ちかけられたらしい。奇蹟のコラボであった。私も読みたくなった。因みに、ここでいうナウシカは、アニメ映画ではない。結末が全く違うのだ。アニメはお子様向けに安心できるように作られているが、コミックスのほうは不安で戸惑うような結末へ向かう。しかし、そこにこそ、このパンデミックの時代の先を考える糸口があるのだということで、二人は一致している。その分析がかなり長く続き、そして面白いのだ。
 それから、伊藤氏が別の方面でテーマにしている「利他」という概念も加わってくる。ウイルスの働きの中にもそれはあり、そして人類と生命にとっても、この「利他」という概念は最後まで強く働くものとして貫かれていくので、これからの生命哲学のために私たちもぜひこのことを考えていきたいと思う。私はその「利他」の本も読んだし、後で伊藤氏が持ち出す「中動態と責任」についての本も読んだ。この辺り、愛すべきものであったし、私も心惹きつけられたものであったので、個人的に感動するのだった。
 伊藤氏は、障害者の取材と研究も多い。ピュシスとして人間の身体性が話題になるとき、この障害という観点が抜け落ちないように、鼎談のブレーキ役を果たしているようにも見える。つまり私たちはえてして、障害者を除外して話を展開し、それで人類のすべての場合に当てはまるようなものを論じているような気になってしまうことがあるのである。障害と言っても様々である。幻肢という現象がある。失った身体の一部が、常にそこにあるような気がしてならないことである。その感覚もひとつの身体なのであるが、さらに精神的には、幻聴というものがある。あらぬものが聞こえてくるのだ。これはなかなか去ってしまうことがない。しかし当事者は、「幻聴さん」などと呼んで、ほどよく付き合うようにしていることがあるという。これを完全に消失されてしまうのが癒しであるとでも考え、またそれこそが健康なのだなどと思い上がっていたら、そしてそうすることが医学の成果であるのだなどと決めつけていたら、やっていられないのではないか、というような話もその後現れる。まことにその通りである。
 いまの新型コロナウイルスの情況は、日に日に変わっていく。その現象だけに気を取られて一喜一憂していくのではなく、大きな歴史のスパン、世界の文明における対処、また根本的に人間観自体への問い直しといった各学者の観点を交え、そして福岡氏の生物学者としての見方による、生命現象を捉える世界でこそ見出される生命観とが合流し、実りある鼎談が続いていく。最後のほうで、それが村上春樹の「風の歌を聴け」になぞらえられて、「ピュシスの歌を聴け」をスローガンにする場面もある。人の思惑を自然に当てはめ、それこそ善だと改造し操作をし続けてきた近代文明から、ピュシスに耳を傾けてそこから聴けという大胆な方向転換が必要なのだという視点が与えられるのである。私たちの身体が、それぞれに声を発し、歌を歌っている。それを聴くのは今だ、という訳である。
 私は、これほど完成度の高い鼎談を見たことがない。普通、それぞれが言いたいことを言って、それぞれが自分こそ正しいと内心考えているために話が発展などせず、ちっとも噛み合ってなどいない様子を辿るばかりなのである。しかしここでは、まるであちこちに蒔いておいた伏線が大団円までにすべて解消されるかのように、見事な調和を成している。
 この鼎談は実はリモートであった。ピュシスを提言したい話し合いが、ロゴスの最たるものとしての通信機能によりもたらされたのである。このことをひとつの皮肉だと伊藤氏などは自覚しているのだが、私たちは、なにもロゴスを否定するのではなく、ロゴスとピュシスの再構成へと私たちは促されて、ここから生命と利他と自然への眼差しを与えられてなお希望を胸に歩き始めることができたらいいと願うばかりである。




Takapan
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