本

『ぴっぽのたび』

ホンとの本

『ぴっぽのたび』
刀根里衣
NHK出版
\1600+
2014.11.

 とね・さとえさん。不思議な人である。福井から京都精華大学を経て、イタリアの人に認められて、イタリアに渡り制作活動をしている。「幻想的、かつ繊細な筆致が高く評価」されるなどとの評判であるが、私は勝手な印象を少しもっている。
 とはいえ、まだまだこの人の作品を味わったわけではない。もっと触れたいと思う。
 絵本は、言葉が比較的少ない。その一言一言にこめられた思い、その一言を選ぶためにかけた時間などを考えると、こうした場で安易にその言葉を並べてしまうことは、絶対にしてはいけないことだと考えている。その上で何かご紹介したいというのは、矛盾したことであるに違いない。
 表紙を見れば分かるように、「ぴっぽ」はカエルである。ぴっぽはひとりぼっちだった。ぴっぽは、さびしくてねむれない夜がある。そんなとき、ひつじを数える。ある日、そうやって数えていると、小さなひつじに出会う。このひつじは、ゆめのなかをたびすることができるという。
 ぴっぽは、小さなひつじといっしょに、たびをすることにした。そして、一つひとつのゆめのなかで、いろいろな相手に出会う。
 子どものための絵本物語の常道として、同じことの繰り返しというものがある。だが、それぞれの出会いはユニークで、ひとつとして同じ調子の繰り返しのものはない。一つひとつのゆめは、それぞれがひとつの物語となっている。その意味は、大人の心が勝手に抽象することを拒んでいる。これは要するにこういうことだ、と決めつけることを許さないのである。開かれていく頁に、新しいゆめを子どもたちは感じることだろう。その都度、ゆめのたびを体験していくのではないか。
 大きな背景の絵は、ひとつの色のトーンで落ち着いた画面となり、評のように「幻想的」であるといえる。しかし、そんな言葉でまとめられるほど、分かりきった世界ではない。無表情なカエルのぴっぽの心は、数行で終わる言葉によって説明される。否、ぴっぽの心が描かれるのは後半である。それまでは、出会った相手が一方的に、ぴっぽとひつじのふたりに話しかけているのである。それが、ぴっぽの言葉が出てくると、様相が変わる。
 最初、ぴっぽはひとりぼっちであった。しかしいつしか、ひつじとふたりが、まるでひとりのように扱われ、相手がふたりに話しかけるような形になっていた。しかし後半で、ぴっぽひとりだけの言葉が現れるとどうなるか、そしてそこからが、この物語がほんとうに描きたいことになってゆくのであろう。
 ひとは、ふと何かを失うことがある。時に、それは自分の力ではどうしようもないものによって。時に、それは自分のふとした気紛れによって。失って初めて気づく、その失われたものの大切さ。そのとき、せつなくて、さびしくて、どうしようもない後悔のようなものに包まれて、ひとりぼっちにさせられた気持ちになるかもしれない。
 刀根里衣さんの世界には、そんな孤独感が伝わってくるような気がする。誰かに理解されたいけれど、それもままならぬ。でも、誰かがそんなわたしをも理解してくれている。無条件で自分を受け容れてくれる、大きなものが、きっと存在する。あたりまえだと思うようになったものも、実はそうではないということを知ったときのさびしさ、やるせなさ、そうしたものを知ったとき、ひとはますます孤独になる。でも、そういう孤独を知ったからこそ、また新たに出会うことができるのだ。自分を包む大きなもの、自分を支えてくれるもの、自分を受け容れてくれる愛や、希望を教えてくれるものと。
 これは私の勝手なイメージである。本を開いた方は、それぞれに、それぞれの感じ方ができるだろうと思う。ただ、深く感じた人は、何かしら自分の心の中のものと、新たに出会うような気持ちになるのではないだろうか、と思う。自分の中の何かに気づかされるような思いがするのではないだろうか。それはまた、作者の体験にもあったことではないかという気もする。喪失感と、孤独感。しかし、だからこそ知る、愛。
 やはり聖書から与えられたものが、私からは取り去ることができないようだ。それが、私の感じ方となっている模様である。




Takapan
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