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『高校生のための哲学入門』

ホンとの本

『高校生のための哲学入門』
長谷川宏
ちくま新書666
\700+
2007.7.

 高校生のための、と付くから簡単だとか、手を抜いているとか、そんなふうな勘違いはして戴きたくはない。易しい言葉で深い考えをもたらすことが哲学のひとつの姿なら、確かにこれは哲学である。
 著者はアカデミズムの申し子ではない。自宅で学習塾を営んでいるという。しかし哲学を大学で、また大学院で学び、相当な知識と言語力をもっている。そのことは本書の中でも生い立ちのように触れられているから、ここでは詳述するつもりはない。
 ふだんから高校生など若い人たちと会っており、いや、向き合って闘っているわけで、彼らに向けて書いたものである、とは著者は言っていない。読んでくれそうにないからだそうだ。架空の高校生に向けて書いたということらしいが、それでも、実生活で若者にふれあっていると、やはりそれなりの感覚で綴っていくものであろうことは、私には分かるような気がする。
 全体は8章に分かれている。これはご紹介しよう。「自分と向き合う」「人と交わる」「社会の目」「遊ぶ」「老いと死」「芸術を楽しむ」「宗教の遠さと近さ」そして「知と思考の力」となる。哲学らしくない? そうかもしれない。しかし、事象から逃げずに立ち向かい、なにげなく生きていたら気づかないような視点、ないし視座を提供するという意味では、立派な哲学であるだろう。若者を導く道案内のように、そしてこんなふうに物事は見ることがてきるのだ、と語る老人のように、言葉が綴られていく。テーマの設定は、若い人たちがぶつかるであろう問題意識をよく捉え挙げていると思う。その意味でも面白い。
 できるだけ若いその世代の目線に立ち、このように世界は見えているかもしれないが、それは認めるけれども、それがすべてではないのだ、というようにいろいろな考え方を見せていく。人生経験と思索の歩みがもたらす、思考経験のプレゼントである。
 哲学者の思想を解説する気はさらさらないらしい。その意味では、「哲学入門」という言葉は、世人が期待するのとは別の意味を背負っており、世間的な意味での「哲学」を求めて本を手に取ったら落胆することだろう。その意味では、このタイトルはよくなかったと思う。「考えてみよう」とか「考えるヒント」とかいうような辺りだと、大きく裏切らないだろうか。「哲学入門」と言いながら、後のほうで思い出話で出てくるようなサルトルだのヘーゲルだのの思想については何の解説もしてくれないのだから。著者は、ヘーゲルの解説についても定評があり、その気になればいくらでも説いてくれるはずなのだ。高校生にそれは不要だという配慮であろうが、ご自身の関心のある哲学者の名が時折ちらりと登場するほか、哲学史には何もタッチしない。それもまた、哲学である。もちろん、著者の意図したもののほうが、知を愛する「哲学」の営みとしては正解である。しかし、いくら世間が哲学の歴史の知識を哲学だと誤解している、という事実があるにしても、そうではないのだ、ということを明示するくらいの配慮があったほうが、適切な売り方ではなかっただろうか。そして、実はもっと手に取りやすかった野では亡いだろうか。それとも、哲学というひとつのブランドを掲げたほうが売れるというふうに見込んだ編集社の目論見に従っただけなのだろうか。
 若い世代への人生論の型としては、決まったものがあるわけではないし、著者の持ち味でしてくださるといい。しかし、年代差からくるのか、少しばかり思い込みも見られ、しかも繰り返されるので、私は思わず本の中に「?」を何度か書き込んだ。それは、「社会の目」のところで、電車の中で席に座らずドアのところに立っている若者の描写である。これが社会の目を避ける意識で、拙いこととして幾度も記しているのである。社会から見られることを無視すると書いているようだが、おそらくは逃げているというふうな評価なのではないかと思う。その指摘自体を問題視するつもりはない。ただ、ドアのところに立って、外の景色を見ているように向いているから、車内からの目を避けているのだ、という決めつけ方をしていることも明らかなのだが、これはおかしい。電車でドア近くに立つときには、車内に背を向けて、外を見るのが当然であり、常識である。これを、壁を背もたれにして立つ者が少なくないが、そうすると中に立つ別の人と向き合うことになる。エレベータの中で、出口の方を向かず、奥の方を向いて立つ人を想像したらいい。電車では、出口の方に体と顔を向ける、それがマナーであり、電車の正しい乗り方である。だからドアのところで外を向いて立つ若者がいたら、それはちゃんとマナーを守っている人なのであって、それを捕まえて、社会に背を向けている、という非難をするのは、明らかにおかしい。この辺りは、思い込みなのだろうと思う。
 最終章は、いいタイトルだと思ったが、ここに書かれていたのは、自分の生い立ちであった。確かに生い立ちはよく分かった。学生時代にすごく勉強をしたが、学生運動の中で出世コースをアウトしたという経緯もよく分かった。だが、それが「知と思考の力」という章のタイトルとは、どうしても重ならない。もちろん、著者の意図を無視するつもりはない。著者の中では、見事に「知と思考の力」を描ききった満足感はあるのだろうと思う。そして、その力が互いを理解し結びついて生きる力となるだろうという希望へと結んでいる。その情熱は買う。しかし、著者の頭の中で結びついている、その力の関係が、どうにも語られていないような気がしてならない。知と思考によって、社会が良くなるのであれば、逆にひとは何も苦労する必要がないのではないだろうか。むしろこの章は、著者がこの本を書くに至った背景を、自分の人生を紹介することによって暴露するからどうか理解してくださいね、という目的で存在したほうが、有意義であったと思うのだ。
 こうして見てくると、著者が自分の人生を振り返り、若い人々へ遺言のように伝える、自分の人生観と世界観を自由に語った本、それが本書であるように見えてくる。結局「哲学」というものの定義をしようとしたわけでもないし、自由に自分が社会や芸術に対して思うことを綴ったエッセイであるとしておくならそれはそれで面白いのに、読者を哲学の世界に入門させるようなふうではなかったように感じる。
 その意味で、本書は別の相応しいタイトルで売り出したほうが、適切であったのではないだろうか。
 宗教についても、信仰はお持ちでないそうだからそれも仕方がないが、宗教を、生きることが苦しい人のものだとか、現実を受け容れられない人のためのものだとかいうふうな決め込みから入るが、果たしてそうだろうか。宗教的体験がないとき、やはり宗教を論ずるのは弱いというところを見せてしまっている。但し、悪人ならなおさら救われるという逆説についてはそれなりのこだわりを以て論じてあり、少し頼もしい面も覗かせた。宗教的な問いが、信仰をもたない者の心をもゆさぶるという洞察は、悪くない。それによって結局思索しか行き場がないというのは著者の世界からして仕方のないことだが、思索と精神の問題にしかその問いは開かれていないわけではない。だのにこのような書き方をするということは、やはり本書は「哲学」の部屋に閉ざされたエッセイであったということになるのだろうか。タイトルは、やはりそれでよかったのだろうか。私は少し、悩む。




Takapan
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