本

『14歳からの哲学』

ホンとの本

『14歳からの哲学』
池田晶子
トランスビュー
\1260
2003.3.

 2007年、まだ46歳の若さで癌のために亡くなった哲学者。女性としても話題になったが、日常の言葉で、語りかけるように思考を重ねていく方法は、大学や哲学組織とは離れたところで、自分の生き方を確かめるかのようにも見えた。ソクラテスの方法を表に出したシリーズや、この、若者に語っていく本などでよく知られるようにもなり、その他にも多くの著作を遺した。それらは一定の販売を重ねており、すぐに絶版となりがちなアカデミズム哲学の著作と対比され得るかもしれない。
 タイトルには14歳とあるが、後半に17歳向けの、やや抽象度や社会的あるいは人類的視野を増したテーマでの語りも含んでいる。前半部にしても、事実、今日の14歳にはきついと思われる。そのくらいの語り方であるには違いないのだが、もしかすると大人でも辟易するような内容なのかもしれない。私も、同じ範疇での思考に慣れていなかったとしたら、どうだったか知れないと思う。
 副題に「考えるための教科書」とあるが、それは何かを教えこもうとするものでもない。いわば著者の思考の経歴を綴り、またその信念を表現しようとしているものであるようにも見える。ただ、そこに答えを出そうとするのではなく、問うことへ促していく立場には共感できる。今まで気づかなかったことに気づかせてくれるというのが、読書の醍醐味である。自分一人で考えていたのでは思いつかなかったことに出会う、それがなければ読書をする意味がない。しかし、エンタメ的に愉快なものを何でも提供してくれてそれで終わり、ということには満足しない精神が、この世には沢山ある。なるほどそのように考えれば、考えを深めることができる、そうした「考えるヒント」のようなものは、ある意味で最も読者を活性化するものであろう。そういうのが面倒な人も当然いるが、そういうのが好きだという人も必ずいる。私は後者であった。「そもそも」それはどういうことなのか、問いかけたいし、自分がどう選択し、歩んでいけばよいのか、道標が欲しかった。しかもそれは誰か他人が与えた道標ではなく、自分のために用意されたもの、自分らしいものであることが望ましいと思っていた。
 こういう若者がいたら、この本はもってこいである。
 ただ、先にも触れたように、著者の思いがこめられているのも事実である。著者の考えこそ正しい、と思い込んでしまいそうな人、流されやすい人は、本当は向いていないのかもしれない。著者とて、それは望んでいないのではないか。ソクラテスとて、ソクラテスこそ正しい、と賞讃されたかったのではなく、自分が何もかもを知っているわけではない、ということを、他人もそうではないか、と互いに確認するような営みを望んでいたのではないか。いや、それはよく分からない。プラトンは、自分の説を受け容れさせようとして描くようになっていったのは確実だろうから、どこまでがソクラテスでどこからがプラトンであるのか、それを見分けることは無理かもしれない。
 ともかく、この本では、まず「考える」ということはどういうことか、から始まって、「言葉」「自分」という問題に進む。著者が終生問い続けた「死」も早いうちに問題に挙げられる。「体」から「心」、それから次第に家族や社会へと目を向けさせる。だんだんと大人の視野を得ていかなければならない中学生のための思考であるが、これは大人が味わっても十分難しい。むしろ、社会生活をある程度やってきた大人こそ読めば、書かれてある意味がより分かりやすいというのはあるだろう。ただ愚痴をこぼして酒を飲んで笑ってそこそこ諦観をも示しておけば人生のような面構えをしている大人が読めば、まだ夢や希望をもっていた若いころの自分に戻ることもできるのではないかとすら思われる。若返りの薬だ。
 思考というのは、無人格な人間がするものではない。だから、繰り返すが、どうしても著者の思惑が入る。著者の信念のようなものが舵を取っていることも、あるのは間違いない。だから、読者のほうも、自ら流されてしまわないように読むべきなのだが、それができるようになっていることが、実は自ら「考え」ながら歩いているという証拠になる。どこか皮肉なようだが、著者の言う通りにならないことこそが、著者の願い導く道なのである。哲学者は、そういう働きをなしている。不思議だが、私には魅力的だ。




Takapan
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