本

『パウロとペテロ』

ホンとの本

『パウロとペテロ』
小河陽
講談社選書メチエ332
\1680
2005.5

 キリスト一人では、キリスト教は誕生しなかっただろう。さらにいえば、キリストは、キリスト教ではなかった。当たり前のことであるが、考えてみれば、宗教の伝播には、そのために用意された器がある。
 言うまでもなく、パウロは、その先頭である。パウロなしには、キリスト教は広まることがなかった、と言える。というのは、ユダヤ人の外にキリストを伝えたというのは、まさにパウロの功績に違いないからである。
 ところがよく考えてみると、ペテロもまた、かけがえのない役割を果たしている。それは、キリスト十二弟子の筆頭であった。福音書でも、十二弟子といえばまずペトロの名前が挙がる。熱血漢で一本気で、そしてまた、人間的な弱さを十分その福音書で描かれている。ペトロが原始キリスト教のリーダーであったのは間違いないのだが、そのとき福音書が記されていくとすれば、ペトロはそんな記事は削除したくなったに違いない。
 残念ながら、福音書の完成は、ペトロの死後のようである。しかし、ユダヤの教会にとって、ペトロの地位は、福音書のこの失敗だらけの記述にも拘わらず、低くなることはなかった。それどころか、初代教皇として、ペトロは永遠にカトリック教会の基礎に置かれることとなる。
 あとがきに記してあることだが、この本の存在意義の一つとして、パウロとペトロとを同時に論じ比較していくという本が意外に少ないのだという。なるほど、この対比は、ありそうで、なかなかないものである。
 パウロが、書簡を多く残し、またパウロの手によらないであったにせよ、パウロの精神を継ぐ派の手によるパウロの名による書簡も資料の一端になるとすれば、そしてまた、使徒言行録いわゆる使徒行伝によるパウロの伝道旅行の記録など、パウロの人となりを伝える資料は、聖書そのものの中にも少なくない。それに対して、ペトロの場合、福音書の記事のほかは、使徒行伝にわずかしかない。ペテロの名による書簡は、ペテロの思想を伝えるというほどのものは期待できない。
 著者は、まずペトロという人間を、福音書や時代背景の資料を突き合わせ、聖書でない資料も加味して歴史的事実を十分に踏まえながら、その置かれた状況や行動の背後にはたらく心理を想定しつつ、描き出す。それから後半がパウロである。この二人は、何らかの形で接触をもっているらしいことが、資料から分かるために、出会うまでと出会ってからの人生というものを、聖書の行間を埋めるかのように描こうとしている。
 こうして、二人がよく言われるほどには反目し合ったり、正反対の考えであったりするわけではないこと、そしてまた、同じ一つの霊や信仰の中にも、二人がどの部分で微妙な違いをもっていたかということ、そんなことを指摘しつつ、筆を置くようなことをしている。
 たしかに、研究の最先端をセンセーショナルに掲げるようなこともしないし、ひどく衒ったような書き方もしない。穏やかな叙述である。しかし、最近の研究結果も射程におきつつ、まとめあげていくということで、信頼のおける本となっている。その上で、筆者の考えに過ぎない点は、その旨分かるように描いているので、読者の判断も十分に残すような書き方となっている、と言ってよい。
 この二人は、おそらくヤコブという存在によって、つながれているようだ。従って、表向きは、キリスト教の看板はたしかにパウロとペテロであり、またそれでよいのであるが、どこか二人を牽制するかのように、陰でしぶとくユダヤ教にしがみつく形でどこか悪役っぽく、それでもなおキリスト教のために適度な役割を背負った、ヤコブという存在が、私にとっては逆に興味が沸いてきたところである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります