本

『平和創造への道』

ホンとの本

『平和創造への道』
関西学院大学キリスト教と文化研究センター編
新教出版社
\2000+
2010.1.

 いろいろなシンポジウムを実施し、キリスト教界や社会に向けて、提言を繰り返す関西学院大学の企画のひとつです。この本自体、出版時に私は気づいていませんでした。あるいは、気づいていても注目していなかったのかもしれません。  いま私の心に刺さり、古書扱いの書店でいくらか安く入手しましたが、十分買うに値する本でありました。
 幾人かの講演がテープから起こされ、それをまた読みやすく修正したという形のようですが、実に読み応えがありました。野田正彰氏が冒頭で、戦争責任の問題と平和との関係を語ります。これがまず私にずしんと響きました。最上敏樹氏は、隔ての壁を取り払うという、聖書的にも当たり前のことを改めて私たちに突きつけます。それが実はできていないのです。
 その他、多くの方々が貴重な意見を述べます。あとがきにかえて、というタイトルで、いわばこのシンポジウムの主賓たる中道基夫氏が、すべての講演をまとめていますが、恰もすべてがつながりひとつの筋道を通すように、これらが有機的につながりひとつの命あるメッセージとして出されているようだというような感想を述べていますが、まさにそうだと私も思いました。
 ヘブライ語の平和概念は勉強になりました。かなり長かった、ボンヘッファーの平和思想は、私がこれまで抱いていたボンヘッファー観を変えました。彼の人生の歩みを思想的な点が明確に描き直し、はっきりした視点から、その価値や意義を私たちの捉え方の中に植え付けてくれる、そうした力があったと思います。
 フィリピンの現場での行動という具体的なひとつの場面から、より普遍的な問題への眼差しを与えてくれる、「別の道」への提言は、あまりにも現実的で、心に汗をかきました。平和はひとつには経済的なところに基があるとも考えられますが、その具体的な光景がありありと迫ってくるものです。
 それからイスラームの世界から情報が届かないために欧米よりの偏見に染まっている私たちのあり方への反省が問い直され、最後に中道氏が、「では、どうすればいいのか」と、根本的な問いを投げかけて本書は閉じられます。この問いは、何の解決も与えてはくれないものでしかなく、ここからスタートすべきだというような弱々しいもののように見えないこともありませんが、実はそうではなく、やっとここからスタートできることの強みを私たちに示してくれるような気がしました。私たちの無知で気づかないことの前提を踏まえたならば、いまはゼロのようでも、意味が違うのです。ここからのスタートには意味があります。「では、どうすればいいのか」という問いがまるで止揚されたかのように、新たな情景の中で浮かび上がってくることができるのです。
 平和。漠然と考えていることのできる私たちは、そうとうに平和なのです。いまこのときにも、平和がほしい、と命をかけて祈り闘っている人々がいます。今日の夜に平和があるように、と泣いている子どもたちがいます。その必死の思いを、抽象的な議論で偉そうに議論できる私たちは、なんと平和なことでしょう。そんな私たちに、平和など実は分からないのかもしれません。平和の敵は、自分が正しいという捉え方です。それは誰もの中にもあります。「平和を実現する人々」になるように、キリスト者は確実に招かれています。
 しかし、その声を聞こうともせず、また聞いても従わず、日々安穏とした平和の中に安んじてさえいれば安全とぬるま湯生活をしているのかもしれません。「平和」と口でまず称えます。その言葉がいかに空疎なものであるか、また自分が壊しているものであるか、恐ろしいほどに感じ取るところから、私たちの歩みはやっと始まるものなのでしょう。でも、いまからでも遅くはありません。私たちの歩みが、始まるならば、まだよいのです。そのために、共通地盤として、この講演集は意味のある輝きを私たちに投げかけています。山の上から光を照らしています。照らしているのに、それを知らされているのに、私たちがどうするか、今度は私たちの責任がここに問われてきます。戦争責任ですら、私たちは他人事にしてしまっているとすれば、救いようがないではありませんか。




Takapan
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