本

『イエスの譬え話1』

ホンとの本

『イエスの譬え話1』
山口里子
新教出版社
\2000+
2014.10.

 フェミニズムの考えから、女性のあり方について聖書を説いてきた著者である。また、虐げられる側の立場から、聖書を、従来の常識的な読み方とは全く違うフィールドに造りかえてしまうようなエネルギーをここに感じる。
 定番の読み方に疑問をもつことは、悪いことではない。聖書は、自分と神との関係を結ぶ書である。自分の読み方があってもよいのだ。ただ、自分勝手というものは困る。悪用していくのは、荒野の誘惑においてサタンのしたことである。
 この本は、イエスの譬えに限定している。有名な譬えが並んでいる。しかし、読んでいくとき、いや、最初のひとつの章を見ただけで、これまでとは違った世界が広がっていくのを、読者は感じることであろう。
 その読み方は、社会主義的な香りもするものであり、悪意を以て批判すれば、いくらでも批判できる余地をもつ。聖書全体のメッセージからすれば、重箱の隅をつつくような視野の狭いものだ、というふうに攻撃される可能性もある。しかし、著者の立場や視点というものはぶれない。イエスが話した譬えの中身を、当時の社会状況から受け取れば、すなわち、これを聞いたのは文字も読み書きできない人々であり、社会的に圧迫されていたような人々に違いないのだが、その人々がイエスの言葉や表現、言い回しの中にどんな意味を理解し、どんな世界を想像したのか、ということに特化して読み解くのである。その意味では、律法学者のようにしか読んでいない自分に気がつくものであり、反省を促される。イエスの思想を、弟子たちが、あるいは後の教会の形成者が、そしてパウロさえもそうなのだが、まとめていった時の理解とは違い、まさにイエスが人々に語った、その現場で何がどう受け取られたか、という問題提起である。その意味では、福音書や書簡は、イエスが直接語った意味をそのまま伝えているとは限らないし、むしろ数十年後の信徒たちの理解をまとめたというほうが、明らかに正しい。果たしてイエスの言葉はどんな空気を伝え、どんなふうに受け取られたか、ということは、後の指導者たちのまとめと同じかどうかは全く分からないのである。
 こういう反省の中で、私たちはこの著者の導きを受ける。著者はしばしば問いかける。断定的に、こんな意味だ、と押しつけることばかりするのではない。当時の民衆はこういう立場にいた。だから、土地支配者が神だという後の教会の、そして今の私たちの理解とは違い、自分たちが支配されている故に、圧制的で自分勝手で権力を振りかざす支配者のことだとして民衆が受けとめたのではないか、という問いかけは、全くその通りとしか言えないようになってくる。
 奇を衒うような部分が感じられないわけではない。また、それでその譬えでイエスが言おうとしたことは何であるか、どんな神の国のメッセージ、どんな福音であるのか、という点について、結論が定かに見えないような解釈もあるように見受けられる。だが、私たちは、凝り固まった視点から解放されるという体験ももちたいものである。そもそもイエス自身、当時の常識であった祭司やファリサイ派などの理解していた神の言葉に対して、異議を唱えたのではなかったか。一定の権威にしがみつき、一部の解釈者の言いなりになって自分も権威ができたかのように考えていたことからの解放ではなかったか。
 当時、その空気の中で、圧迫を受けた人々がいた。地の民はどうしようもない屑のように見られていた。イエスは、そこに光を当てた。もしかすると、後の新約聖書編集と教会組織の形成に携わった時代には、それがいつの間にか変貌して、圧迫する側の立場からイエスの言葉を一定の権威保護のために利用したのかもしれない。著者の視点は、そのあたりの疑いを入れつつ、私たちに対して挑戦する。地の民は、イエスに出合い、その言葉をどのように受け取ったのだろうか、と。この問いに答えるためには、私たち自身が実は貧しく弱い存在であるというところからスタートする必要があるようだ。私たちはいつの間にか、肥えた偉い者になっていやしないだろうか。パウロでさえ、コリントの教会に、そのような問いかけを出していたではないか。
 また、原語のギリシア語の用法や語彙にも注目しながら、こうした背景について捉えていこうとする著者の指摘は、私たちがどのように解釈しようとも、勉強になる。そこからまた私たち自身が調べていくようなことがあってもいい。
 いずれにしても、刺激の多い、そして学ぶところの多い挑戦である。続刊があるのではないかと思うので、また楽しみにしたい。




Takapan
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