本

『驚きの手話「パ」「ポ」翻訳』

ホンとの本

『驚きの手話「パ」「ポ」翻訳』
坂田加代子・矢野一規・米内山明宏
星湖舎
\2625
2008.3

 手話通訳という言葉は一般にも知られている。テレビの手話ニュースで行われているし、教会でもメッセージに手話通訳がつくことがある。その他、イベント会場に用意されていることもあるし、自治体の窓口にも配属されるところが現れてきた。
 バスの運転士は全員手話をマスターするのは難しいので、筆談を致しますと表記しているのが、たとえば西鉄バスだ。ろう者は、視覚の不自由な方々と違い、見た目でそれとは分からないのが普通である。そのために、過去に悲惨な目に遭ったこともあるし、様々な誤解も生じることがある。その意味でも、このような配慮は悪いことではない。
 ところが、いざ通訳者を養成しようとしても、あるいは手話を学んだ者がなんらかの通訳をしようと試みても、その困難さに悲鳴を上げるという。この本の記述によると、少々腕自慢の手話の者も、いざ翻訳をしてみると半分も伝わっていないらしい。教会の説教のように、比較的限られた語彙の中で限られた内容を伝える場合はもう少し率は上がるかと思われるが、それでも、手話通訳というのは至難の業であることは間違いない。
 この本は、関西手話カレッジと、手話文化村とが協同して創り上げた。それも、ろう者が手話でビデオという形で論じたものを、日本語に翻訳したのであり、その過程も侃々諤々長時間をかけて練り上げたものだという。それほどに、翻訳というのは、簡単なことではない。
 ここで「翻訳」という言葉に、通常は違和感が伴うのではないだろうか。昔の、手まねと蔑視した頃のことを覚えておられる方は、ゼスチュアサインに何をオーバーに翻訳なんぞと言うのか、と訝しく思われるかもしれない。
 しかし、ろう者の意識は大きく異なる。そもそも、一般者がテレビドラマを見てちょっといいなと思う手話や、歌に合わせてステキだと見なしている手話は、ろう者の手話ではない。それは、日本語と英語との関係でいえば、「ナイター中継見ながらパソコン打ってたらヒットエンドランに感動した」と言うような和製英語が英語でないのと同様である。
 そう、手話は日本語を手話単語に置き換えたようなものではない。全然別の言語なのである。異言語に対してどう学ぶか、私たちは英語という手段で基本的な心得ているはずである。英語を日本人から学んだ者が、翻訳の勉強をすることなしに、同時通訳ができるようになるだろうか。ちょっと考えただけでも分かる。できるはずがない。だのにどうして手話については、手話を聴者のグループで学んだだけで、手話通訳をしようなどと思うのか。ありえない話である。
 じっくりみっちり、文化の違いを学び翻訳を修行した上でないと、同時通訳など不可能であろう。それは日本語を磨くことでもあるし、英語をその文化から理解することでなければならない。手話は言語であるという認識をすれば、そんなこと当たり前であるのに、一般には、単語を覚えれば通じ合えるとさえ思われている。
 この本は、あたりまえの手話認識を促してくれる。手話とは何か、手話を文化の橋渡しとしてろう者と聴者が用いられるために、互いにどういうところに気をつける必要があるのか、教えてくれる。たんに手話の単語はこうですよ、というものでもないし、たんにろう者たちはこう考えている、というものでもない。サブタイトルにあるのは「翻訳で変わる日本語と手話の関係」であり、この言葉が絶妙だということが、本を通して読んだときに分かる。たしかに、関係が変わるのだ。変わらなければならないのだ。
 手話を理解しようとする方々にとって、これは他にないことを伝える本として、ぜひ目を通して戴きたいと願う。私は偉そうに、そんなに手話を理解している者だとは思えないが、それでも、これは画期的であると捉えうると思う。
 ちなみに、タイトルにある「パ」と「ポ」は、手話と共に示す口の形が、ニュアンスの違いを確定的に伝えているという、手話の基本ではあっても手話学習者が気づかないような点のことを言う。同じ手の形でも、口の形で、「翻訳」が変わってくるのだ。なにしろ違う文化であり違う言語なのだから。英和辞典でも、ひとつの英語にたくさんの日本語が訳の候補として上がってくるのと同様であろうか。面白いタイトルとなっている。




Takapan
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