本

『子どものとなりで親になる』

ホンとの本

『子どものとなりで親になる』
浜文子
立風書房
\1,600
2003.10

 感性的に合う、合わないというのはある。私はこの著者と、感性的に、合う。そうだそうだと言いたくなる。いや、自分の中にあるもやもやとしたものを、なんとスムーズに言葉に表してくれているのだろう、と感動すらする。
 子どもについて、それを育てる女性について、そしてまた父親について、私はしばしば言及する。どれもうまく言えなくてもどかしいけれども、少なくとも自分の中から生まれた真実なものとして、言葉を発しようと考えている。もがいている。そんな私の姿勢を、それでよいのだ、と言ってくれるのが、この本の著者であった。
 思わず涙した詩もあった。著者はときに伝えたいメッセージを詩にしているのだ。詩という言葉を使う場で、理屈で割り切ってはいけないことを、存在の全体を揺らすほどに根底から響かせるために、詩を使うのだろうと思う。私も同じことをしようと思ったら、たぶん詩を使うだろう。
 子どもが、日常の道具や小さな部品を遊びのためにさまざまなものに見立てる想像力をもっていることに驚かされたことに触れた後の詩を引用する。
「……ありふれたものを/特別なものにし/目立たぬものに/いのちを吹き込む/あなたの力 子どもよ/あなたは/私さえも/母にした」
 私はこの感性にも共鳴した。私など、子どもとどれほど真剣に向かい合ってきたかは分からない。母親と違い、父親はどこか距離を置いているし、なにぶん、腹の中で一体化していたという感覚がまったくない。自分の一部だったものが劇的に自分を離れてそこにおり、それが別の人格としてあるという意識や感覚が、完全に空想の産物でしかない。母になるという大きな出来事さえ、その周辺から観察している存在に過ぎないのだ。それでも、いくらかでも子どもとの時間を共有しようともがいているうちに、私の感覚は、先の詩にも響くような構造となってしまった。
 妻を愛さない男を父親とは呼べない、と著者は主張する。ああ、その感覚だ、と私は思った。著者は、講演会やシンポジウムの会場で、同席した偉い心理学者や精神分析の研究者が、相談の質問を寄せる母親の切実な痛みをわずかでも想像することができないで、冷たくあしらうかのように傷つける言葉を吐くことに嫌気がさしている。学問的研究がたとえ何かの論理を備えているにしても、それを、今まさに痛みと共にある母親の心を切り刻むかのようぶつけて、何の意味があるのだろう。そんな怒りのこもった思いから、権威をもつ理屈家たちに対抗するかのようにして、父親の不在を、妻との関係のうちから問題視するようになっているのだ。
 ではその愛とは何か。「愛とは、相手の立場、心への想像力です」(128頁)と書かれている。続いて、「愛とは、言葉や表情を使い、目の前に一人の人間に、今日という日への励ましや、ねぎらい、感謝を伝えること」だと説明している。私は拍手を送りたい。信仰の世界での思想を交えることはない本ではあるが、信仰においても大切な愛の精神が、これほど具体的に説明された文が、他にあっただろうか。
 驚いたことに、この著者もまた、「心の闇」という言葉が大嫌いだと明記している(176頁)。私と同じだ。その理由もそこに書かれているが、私の思うところとまずほとんど同じだと言ってよい。違うのは、私が人間の罪という背景と共に見つめている点くらいである。少年(に限らないが)による殺人などの理解に、安易に「心の闇」ともってくるマスコミ、そしてまた識者や識者を気取る青少年問題対策活動を任されたリーダーなどが、如何に人を蹴落としているか、それがいくらかでも世の中に理解されれば、と願う。
 改めて言おう。「心の闇」と口にして事件を分析・評価する人は、自分にはその心の闇というものがないと考えており、明るい高見の場所から、心の問題に誠実に悩む人々を、見下しているのだ。乱暴ではあるが、そのくらい断言しないと、気づいてもらえないほど、彼らは鈍感である。
 母親のためだけに、この本が読まれるのはもったいない。ここには、子どもを教育する立場にある教師のための最高のヒントが、数多く記されている。また、いやしくも子どもの父親である男も、残らず読むがいい。父親として何をすればよいかがすべて書いてある。妻の家事の手伝いをすることではないのだ(もちろん、してもよいしするべきなのだが)。妻を愛することなのだ。
 私は、この著者に対して、とにかく逆らうところは何もない。
 ただ、あらゆる流行の機器を排除した家庭で生活している様子が描写されているが、その真似だけは残念ながら私はできない。著者のもたない、車や電子レンジ、エアコンやパソコンも取り入れながら、それを使っているという痛みを伴いながら何か大切な言葉を発することもできるだろうと思うし、私はそういう立場で、ものを言う役割を与えられているのではないか、と言い訳することにしよう。
 子育てを大上段に振りかざすような真似はしない。特別な営みのように掲げる必要もない。毎日そこに当然のような顔をしてあり続ける、小さな日常の積み重ねすべてが、子育てそのものである。そういう著者のスタンスは、どれだけ強調しても構わないと思う。だから、すべてに満点というわけにはいかない。いろいろ、ある。あって、いいのだ。




Takapan
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