本

『刺青クリスチャン 親分はイエス様』

ホンとの本

『刺青クリスチャン 親分はイエス様』
ミッション・バラバ
講談社+α文庫
\680+
2001.7.

 渡瀬恒彦・奥田瑛二・渡辺裕之・ガッツ石松といった俳優によって、2001年に映画化もされている。当時、キリスト教会でも話題になった。映画を観る機会を逸したこともあり、本があることにも多分気づかず、そのままになっていた。この度書店で見かけて、そういえば、という思いで手に取った。
 ヤクザが回心して、キリスト教を信じる。それだけでもなかなかのものだが、多くが伝道者となってゆく。牧師ももちろんいる。刺青は消えないが、魂は生まれ変わったということだ。それが、それぞれに活動しているのではなく、宣教師アーサー・ホーランドの許に集まり、ひとつの伝道団体を形成した。アーサー・ホーランド自身、ハーレーを乗り回し全国を駆け巡ることを含め、型破りな宣教師である。私は一度京都でそのステージを見たが、語りの巧さが印象に残っている。
 十字架を担いで、交替しつつ道を練り歩く。そして、イエスを信じようと呼びかける。この行進に、刺青の男たちがつながっている。実に異様な光景である。
 彼ら一人ひとりの背景は、それぞれに異なる。突っ張っているところをヤクザにスカウトされ、組に入る。そこで親分に惚れ、犯罪に手を染める。刑務所暮らしも当然あるし、指をつめた者もいる。2本ない、という証しもあった。
 気の毒な生い立ちもある。家庭環境がよくなくて、道を外れていくこととなったり、自殺未遂を繰り返したりする。結婚するも、女遊びをしたり暴力を振るったり、もう話を聞いていられないほどだ。ここには8人の証しが収められており、どれほどの人を傷つけてきたか知れない。人を騙し、金を巻き上げ、豪遊し、借金生活に陥ったためにまた悪の限りを尽くす。子どもが生まれても妻を放置して遊び歩く、離婚を繰り返す、そうしたことはざらである。
 実はヤクザ自身は、覚醒剤を使わないそうだ。自分がそれをすると人間としてダメになることが分かっているのだ。それでそれを売りつけて人を廃人にし、自分は膨大な金を手にするという具合である。だが、本書の人物の中には、そのタブーに自ら手を出してしまった人もいる。幻覚が生じ、暴力が増し、自殺への衝動も繰り返す体験が生々しい。
 本当に、多くの市民にとっては、知る由もない生活がここに次々と現れる。読んでいて息苦しくなる。
 ところが、それらすべてがクリスチャンとなってゆくことを知っているので、なんとか読んでいられる。教会になんらかの形で関わることが起こる。しかしすぐに信じることはあまりない。それこそ義理で行ったとか、説教を聞いても何も分からないという場合もある。中には、クリスチャンの息子という人もいる。厳格な役員たる父親に反抗して家を出、ヤクザの道に入るのである。しかし子どもの頃に聞いた教会での話が、遂に蘇る。それも、覚醒剤でいいかげん参った中で、そうなる。
 明確にイエスの救いに触れている、ということが、読めば分かる。中にはイエスの幻を見たとか、声を聞いたとかいう例もある。それも覚醒剤の幻覚か、と思われないこともないし、犯罪心理から何か説明できるような現象が、ないわけでもない。だが、信仰とはそういうものでもある。案外単純な思いでそうなってしまったのだから、単純にイエスを信じるということもあるようだ。また、なにくそと思い、何億という借金を抱えたために、金儲けができますように、と祈ることを続けていたなどということもある。そのときに、神はなんと、その借金を返すという業を示したというのであるから、これはただものではない。ちょっとそれは信仰というものとは違うだろう、と茶々を入れたくなることもあるが、ここにある事実は事実である。彼らは、神と出会い、聖書を信じたのである。彼らを称えることはしないが、神を称えたいとは思う。
 ところで彼らの証しを聞いていると、その妻というものが多く登場する。散々女を取り替えた挙句の女性もいるし、一途に追いかけたという人もいる。惚れて口説いたくせに、酷い仕打ちをすることもある。ただ、その女性というのが、実にクリスチャンが多いのである。また、だからこそ彼らは教会や聖書に導かれていった、ということでもあるだろう。韓国人や台湾人の女性もいる。教会に行くなら結婚する、という条件を出した女性もいたが、大抵はただ忍耐しているようにも見える。相談した牧師がまたできた人で、ヤクザが教会に来てもなにも気にせず、優しく神の教えを告げるという様子も垣間見える。それもクリスチャンの妻の故であるように思われる。
 とにかく、クリスチャン女性が彼らを変える大きな原因になっている、と言えそうなのだ。もちろん、ヤクザだということを隠して結婚する場合が多いが、それにしても、クリスチャン女性が何人も何人も、ヤクザと結婚しているという事実がここにあるのだ。背景は様々あるだろうが、教会にいる品行方正な男性にではなく、どこか乱暴な素振りの彼らに惹かれる面が確かにある、ということなのである。この辺りの事情については、私はよく分からないし、何かを説明するようなこともできないと考える。ここにあるのは、事実だけである。
 20年後にいまさらのように読んだというわけだが、これは実にフレッシュなものに思われた。いい証しである。素朴で、素直な信仰である。
 中には、こんなヤクザでさえも救われたのだから、という意味で、この本を用いて伝道する、ということに魅力を感じた人がいるかもしれない。神は誰でも救うのである、と。だが、私はそうは思わない。断じて思わない。「ヤクザでさえ」ではなく、「ヤクザだから」だ、などというと、親鸞の言葉を思い起こす人がいるかもしれない。それもまた違う。牧会書簡は何と言ったか。自分は「罪人のかしら」だ、と言ったではないか。悪の限りを尽くしたようなヤクザを、自分より下に見るようなことを、私たちは無意識的にしてはいないだろうか。とんでもないことだと思う。私たちは、罪人である。同じ罪人である。時には自分こそ「罪人のかしら」だと言ってもいいが、とにかく神の前には罪人に過ぎない。それを、少しでも「自分のほうがまし」だなどと言っていたら、とんでもない間違いに暴走することとなるだろう。
 むしろ、幼子のような信仰がここにある、とも言える。真っ直ぐな信仰をもたない自身を恥じるという読み方が、相応しいように思われてならないのである。




Takapan
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