本

『大人のいない国』

ホンとの本

『大人のいない国』
鷲田清一・内田樹
プレジデント社
\1200
2008.10

 時代の声を語る権威をもつ哲学者と、反骨の思想家。二人の対談に始まり、その後それぞれの短いまとまりの文章を交互に並べた本である。薄い本であり、サイズも新書を少し膨らませたくらい。すぐに読めることは読めるのであるが、中身は重い。
 ただ、私個人は、極めて読みやすい本であった。というのは、私の考える視点と実によく似ているからである。ある意味で、私がブログで吐いていることを、さらに深めて大きなテーマとして掲げたようなものなのである。
 しかし、私などには及びもつかない発想や捉え方があるのはもちろんである。この社会は幼稚になってしまえるほどに成熟しているのだ、という、パラドクスのような言明にも、なるほどと肯くほかなかった。どんな世相を反映しているか、ということについては、どうぞこの書に直に触れてお感じになればよいかと思う。
 それでも大人かよ、とでも言いたげに、報道される事態に批評や感想を下す一般の人々。ところが、世の中、社会、間違っている、と嘲笑うその本人もまた、立派に世の中や社会を形成しているはずなのに、そのことは問わない。これは、私が常日頃強調している点そのものである。
 若者がなっちゃいない、ということで片づけられる問題でもない。
 そんなふうな流れで、各論で取り扱われる題材は、「愛国者」が最初である。まさにその愛国を叫ぶ者たちが、駄目な人々には絶対に属さないように思いこんでいる、という理屈もあるのだが、それよりもまず、考えを一つにしていく巨大な集団というものはありえない、という点を明らかにする論が、見事である。
 次に、強者が正義となっていく理論を立て、それが必然というのならば、逆に弱者を正義として掲げることこそ、必然に従わない「自由」なのではないか、と論じていく。どこかソフィスト的であるように見えないこともないが、その実その低い立場を重んじていくことが世の中できていないことを鋭く指摘する。キリストはまさに、そういう立場を重んじたのであり、私はこの展開に肯いていた。
 それから、祝福と呪いの比較であるが、これがまた面白かった。ネットの世界はまさに呪いなのだ、という。どうしてそうなるのか、それはまた本書でお楽しみ戴きたい。匿名性から問い始めたその論の展開が、また実に面白い。ネットの書き込みで自殺するなど、まさに呪いのほか何者でもない。子どもに携帯電話を持たせない、ということでちょうど今大合唱が起きているのだが、それで問題が解決できるようなことはまずありえないということが、ここからも窺える。
 最後の「矛盾」に関する指摘がまた痛快である。韓非子の「矛盾」が、その矛と盾とを売るものがやりこめられた、と安易に思う常識者は、どきりとする。全然その売り手は、懲りてはいないのである。少なくともそういう図式を展開していくことができるのだという。両親が見事に方針一致した家庭というのが、北朝鮮化された家庭である、と極論するのは、まあ言い過ぎなのかもしれないが、論旨は分かりやすい。矛盾によってこそ、アウフヘーベンされていくとする論理を思い起こすものであるが、たしかに言ってみればその路線であるのだろう。
 ここに、この本の対談で提示された、子どものままで通用するシステムである日本の現代社会を成熟と見ることはそれでよいのだが、さてそれが一旦機能しなくなったときにどうするか、その危機管理的な視点について、一つの答えが待っている。それは、最後の論文を綴った内田氏がそうなのであろうが、「ノイズ」なのであった。
 薄い。短い。読みやすい。それでいて、とてつもなく重い。この本がどれほど広く読まれようとも、考えようとしない者は考えることはないかもしれない。考えようとする精神が、まさに矛盾の中で消え入ることがありませんように。




Takapan
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