本

『音と言葉』

ホンとの本

『音と言葉』
フルトヴェングラー
芦津丈夫訳
白水社
\3495+
1996.12.

 天下のフルトヴェングラーである。実は優れた文章をいくつも遺しているという。音楽に関するものとしてはハードルが高いが、関心をもって探したら、図書館にもあった。実は図書館で借りるときに、一悶着あった。検索したものは、閉架式書架にあるという。ちょっと急いでいるときに探してもらったのだが、なかなか係員が戻ってこない。閉架とはいえ、探すのにそんなに時間がかかるも野ではない。しばらく待つが、しびれを切らした。見つからないというので、他の本を借りる手続きをして、図書館を出ようとすると、階段を駆け下りる音がした。そこからまた手続きをして借りた、ということになる。
 こうまでして苦労して探してもらったのだ。すぐにその日から読むことにした。
 ところが、クラシック音楽の素養のない私には、この世界最高の指揮者の文章が、あまりに崇高過ぎた。「たしかに」「なるほど」という読み方はちっともできずに、「へえ」「そうなんですか」だけで終わってしまった、と言ってよいだろう。
 ベートーヴェンやヴァーグナーがひしめき合う。ブラームスの偉大さも伝わってくる。だが、思いのほかモーツァルトは登場しない。脇役に徹している。それよりも、ゲーテだのニーチェだのが登場し、とくにニーチェは、ヴァーグナーとの関係がドラマチックに描かれて印象深い。
 また、「運命」の第1楽章の解釈については、スコアも見たことのない私のような者には気づくはずもない点から、指揮者ならではの追究が始まってゆく。指揮者は楽譜を読み込む。それは、作曲者の意図を知る目的も在るだろう。他方、指揮者の解釈を表すことも目指しているだろう。こうした点も最初のほうで語られていたが、音楽芸術は、それを創造した者と、表現する者とが違うのが一般的であり、そのとき何がどう生まれるのか、どう表現するのが正しいのか、議論があって然るべきである。フルトヴェングラーはもちろん指揮者として、表現する立場であり、そのために楽曲を解釈する。この葛藤あるいは使命感が、作曲者と真正面から対峙して、ある意味で格闘することを可能にする。格闘しなければ、そこから偉大なものは生まれないのである。
 そう。もうお気づきだろうとは思うが、聖書を読み、そこから命を受ける私たちのあり方と、どこかパラレルではないだろうか。偉大な指揮者とは比ぶべくもないが、私もキリスト者のはしくれ、聖書という創造をなした神と出会い、格闘する。格闘と言っても、自分が優位に立つようなことはありえない仕方による。僕として従うしかない立場である。しかし、創造者は聖書の奥深さを悉く私に教えてはくれない。それでもなお、その創造者を表現すべく、つまり伝えるべく、人間の言葉と行為で示す。これがこの音楽というものだ、と指し示す指揮者とどこか似ている形で、神を指し示す。救い主を、指し示すのだ。
 とうてい、芸術論にはついてゆけない。もちろん、クラシック音楽を聞いたことがない、というようなわけではない。むしろ幾度聞き、またいまなお機会があれば鳴らしてもいる。知識がないだけであり、経験がないだけである。だから、ヴァーグナーの壮大さに酔う気持ちも、分かる。だが本書には、そのナチス当時に、非常に憤っているフルトヴェングラーを感じる文書も掲載されている。1934年の文書である。しかし、芸術に対するその圧力に、なんとしても抵抗しようとした著者の息づかいが伝わってくる。このため、ベルリン・フィルの指揮を続けることができなくなってゆく。
 ヒトラー自身、芸術家気取りであったこともあるだろう。芸術を政治的に、しかも理不尽な仕方で道具にすることについて、腹を立てていたことは想像できるが、さて、こうしたことは、いま見渡しても私たちの身の回りで、見られたことではなかっただろうか。
 ジャズや十二音作曲についても、見解を述べ、それらを悪く言うのではなく、クラシック音楽とどういう点が違うのか、言葉にして述べている。言葉は音楽を凌駕できない部分があるだろうが、言葉によって、音楽を立てることはできそうである。クラシック音楽はそれらに比べて「単純」である面があり、だからこそ、また「偉大」であるのだ、と「言葉」で語るフルトヴェングラーが、ここにいるのだった。




Takapan
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