本

『音のイリュージョン』

ホンとの本

『音のイリュージョン』
柏野牧夫
岩波科学ライブラリー168
\1260
2010.4.

 知覚を生み出す脳の戦略。タイトルのすぐ下に、そのように書かれてある。なんとも挑発的な誘い文句だ。
 これは、錯覚を体験するサイト「イリュージョンフォーラム」と連動している本である。というのは、錯視であれば図版を印刷すればそこそこ内容を伝えることができるが、音はそういうわけにはゆかない。CDなどを本に附録のようにして加えることも可能だろうが、製作の手間とコストとを考えると、本を安く抑えるためにも、サイトにて紹介するというのがベストに近い。
 しかも、錯視の場合と違い、音というのは、一定の時間を経て初めてそれを感覚することができるのであり、時間の流れの中でそれを伝える方法を用いなければならない煩わしさがある。それでまた、感覚してみたときの奇妙な感覚というのも、一入である。
 一冊の中にそう多くのことが述べてあるわけではない。音の間をほんのごく僅かな時間ずつ削って空白にして聞かせただけでも、違和感があるという不思議な人間の聴覚と、そこにむしろノイズを挟んだほうが音は滑らかに聞こえるものだという実験の事実を紹介することから始まり、いわばその周辺を一冊の中でずっと巡っているような感じがする。
 そう言えば、一音ずつ発音する発生装置が幼児用のオモチャにもついていて、ひらがなの練習になるものがある。それを連続させると、一定の文を機械が発音する……というふれこみなのだが、これがロボットのぷつぷつと切った無表情な棒読みとなり、一向にまともな言語であるとは認識できないことを、私たちは経験的に知っている。ぷつぷつと途切れて発音されたそれだけで、味気ない機械音だという程度にしか認められないのである。
 音による錯視は、視覚的なそれと類似点もあれば、違うところもある。とにかく著者はそういうことにこだわりをもった研究者なのである。歌謡曲が好きだったという著者の関心が、その後もこの音楽的な営みに続いていくことになる。
 だからまた、クラシックの曲の中にも、人間が勝手にそのように聞いてしまう、という効果を狙うかのように構成されているものがあるのだという。途切れ途切れでも続くような感覚。あるいは音がオーケストラの中を転がって動いていくような感覚を与えることもあるという。
 こうしたことの根拠や意義については、実はまだそう簡単に分かっているということではないらしい。だから、読むほうもどきどきしながら読み進む。いわばまだ誰も知らないようなことが書かれてあるわけであり、それがなかなかスリリングである。
 聞くとき、話すとき、私たちは脳のどこを使っているだろうか。そのことからも、音の感覚における不思議な現象を探ろうとする。だが、光と音との速度のずれについては、まだ十分な解決をみていない分野のようである。まさに今はそれがイリュージョンである。
 この本の意図とはずれるかもしれないが、私はまた、人が聞いているようで実は意識として聞いていない場合や、逆に聞いていないかのようで心にしっかり刻まれているというような場合について、どういう認識の違いがあるものか、尋ねてみたい。そして、クラシック音楽の中には、このようなイリュージョン効果がもっともっと沢山潜んでいるように思われてならないのだが、そういうのを、たとえば指揮者に協力を仰いで研究素材を増やしてもらうといいのではないか、などと安易な想像をしてしまう。不思議な音の効果は、演奏を総括する指揮者が、一番狙い、また感じているのではないかと思うからである。




Takapan
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