本

『お寺さん崩壊』

ホンとの本

『お寺さん崩壊』
水月昭道
新潮新書696
\760+
2016.12.

 九大の博士課程を出ているというが、専門は人間環境学だという。いまは浄土真宗本願寺派の住職である。そして、本を書いてもいる。
 ここまで言って委員会というばかりに、寺の懐事情を明かしたのが本書である。もちろん、地方寺院として、華々しいお寺さんではないと思われる。そこで「坊主丸儲け」という俗語に対する強いアンチテーゼとして、本書がぶつけられたという具合のようである。
 寺が潰れていく実情は、最近でこそよく聞かれるようになったが、寺と檀家との関係が、葬儀関係に限られるとき、家の墓を存続させるためだけに寺に登録しているかのような現状が続いていたものと思われる。それが、寺とは関係なく、ドライに墓地としてだけ機能すればよいという考えが表に出て来た。一部の墓地経営で栄える寺院は、経営的にはよいサイクルになっていると言えるだろう。けれども、純粋に檀家としての墓地を有していただけの寺は、「仏教信仰」が薄れていくとなると、厳しい情況に陥ることになる。分かるような気がする。
 著述家として、自らの経験を大きくはみ出ることはできないので、自身の経験と、出会った人や他の寺の関係者の声などを中心に、寺の実情というものを打ち明けてくれるような本となっている。
 まず、寺院の収入の基本を知らせ、何を以て収入となり、支出はどうなのか、純粋に経営という視点から示してくれる。実はこうした点が不明であるために、世間では「坊主丸儲け」というのである。一年を十日で暮らすいい男、と呼ばれた昔の力士の如く、ちょっとしたことしかしないのにお布施がほくほく手に入るというような目で見られるのは、もはや伝説ではないわけである。
 宗教法人だから非課税、というのも誤解がある。そこで兼業する僧侶も多い。著者自身、筑紫女学園での役員を務めている。学園創設者の孫であるのだという。その道の大学に進むが中退し、別の大学、さらに九大の大学院へと進むが、高学歴でありながら、実のところ「ワーキングプア」であるという事情に陥る。このことを書にて訴えたのは、かなりの大人になって得度を受けてからのことであった。それなりの社会的立場をもっているからこそ、言えるということもあっただろうし、世の中も聞いてくれる、という背景があったのかもしれない。その意味では、著者自身は恵まれた立場にいるのである。
 しかし寺だけの収入がどうなるか、というと、ざっくりした計算ではあるが、檀家の数からしてたかが知れている。細かな収支を出すことはもちろんしないが、大まかな現状は知らせてくれている。
 こうなると、将来寺はどうなるのだろうか。ここは、社会的な意義を含めて、世間に訴える形できちんと述べている。寺院の経営は、法的にどういう問題を抱えているのか、寺の側としても、どういう対処をしていくべきであるのか、考えられる限りの知恵を提供する。
 布施というのは信仰を表すものであるはずなのだが、そこのところはどうなのか。キリスト教会であれば、この「信仰」が重要である。だが、寺の場合は、なんとなくの仏教精神があるとはいえ、一人ひとりの「信仰」というものが支えているようには見えない場合が多い。墓の管理と葬儀や法事の世話だけであるならば、墓地が外部に出て行き、葬儀も簡略化されていく世相からすると、確かに寺は窮地に追い込まれることになる。
 だから、「現代人に届け、仏教!」という章も設けられているが、肝腎の仏教思想への誘いとはなっていなかったように見える。もちろん、浄土真宗の人であるから、悪人であるという自覚と、阿弥陀仏との関わりがそこで語られる。だが、あまり熱心な伝道とはなっていないし、熱心にするような雰囲気もここでは出すことができなかった。あくまでも、寺の経営がよくない事情にある、ということを伝えることが、本書の使命であるかのようである。終わりの方では、自分の「証し」が紹介されていた。そこでは仏教の神髄を語るというよりは、やはり社会的な立場のような角度で訴えているようなものであるように見えた。
 それほどに、抽象的なような救いのあり方を正面切って語るというのは、難しいのだろうか。だとすれば、キリスト教会はどうなるのだろう。やはりそちらの方面に私の関心は向く。教会は、聖書が救いをもたらすものであるとして、それを信仰するように導くことが中核である。「家の宗教はキリスト教です」というような姿勢では満足しない。仏教の方は、「家の宗教」という考え方が強いことだろう。だから仏の救いを分かってもらうという姿勢が取りづらいにしても、寺の経営は支えられることになる。教会だと、教会の経営を支えるものが、「家」ではなく「信仰」である。だとすれば、教会は聖書の神の「救い」をもたらすことがなければ、経営を支えるものが益々なくなることになる。
 いったい、教会の経営はどうなっているのか。一部の大きな教会は別として、小さな教会が多すぎるような実情の中で、教会経営も窮迫している。他の業種との兼業牧師も少なくないが、そもそも無牧の教会、兼牧というあり方で、教会が細々と礼拝を営むということが少しも珍しくなくなっている。牧師の収入はもちろん献金から賄われるが、それを維持するために、教会の活動、特に伝道活動というものに宛てる費用が極端に少なくなってゆく。すると益々、人が集まる道が狭まれるということになる。教会の収支をばらすとよい、とは言わないが、本書の著者のように、内部事情を隠さずに明かすということがないと、信徒の危機感も薄くなるかもしれない。いつか、牧師や神父の懐事情をぽろりと明らかにした会談が新書になっていたが、一部で驚かれたほか、その後そうした点を拡大しようという動きは感じられない。
 お寺さんだけの問題ではない。神社ももちろんそうである。これらは、そもそも「宗教」というものの危機である。ひとの心が蔑ろにされていく。心を求める人は、いなくなったわけではない。本書が次に、救いを説くことへとつながり、キリスト教でも事情をもう少しオープンにできたら、何かが始まらないだろうか、と思う。心が隠されていく時代は、歴史の中でも、暗い時代だったのではないだろうか。




Takapan
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