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『教えることの復権』

ホンとの本

『教えることの復権』
大村はま・苅谷剛彦・苅谷夏子
ちくま新書399
\720+
2003.3.

 生涯国語教師、と読んでよいだろうか。そして、国語教育に対して、最も大きな仕事をした、と私は思っている。時に型破りとも呼ばれ、あるいは最高の技術と信奉され、他人の評価はいろいろに変わるけれども、2005年に亡くなってから後、果たしてその国語教育はどのようにいま活かされているのだろうか。
 本書の共著者といえる苅谷夫妻は、共に国語教育に関わっている。特に、苅谷夏子氏は、大村はまのかつての教え子である。そしてその国語教育を活かそうと努めている。
 本書は、この師弟の対話が多く、三人での話の様子も含める形で進展し、最後は社会学学分野の苅谷剛彦氏の教育への理論的な文章で締め括られる。剛彦氏は社会学をベースにしながら、実はかなり教育関係の探究に勤しんでいるのだ。
 読み終えてひとつ言えることは、本書は小さな新書であるが、非常に力のこもったものである、ということだ。魂の叫びを覚えた、と言ってもいい。これは軽視してはならない。
 本の題も意味がある。「教えること」、それがいま瀕死の状態だとみるのである。教師が教えなくなった。それでは教育にならない、間違っている、そういう声が、頁の間からどこからも零れてくる。そして、その主張を、凡ゆる角度からもちかけてくるのがこの本である。
 いったい、「教える」とは何なのか。それについてのこの厚みのある教育論を、私がこの薄っぺらい文章で明らかにすることなどできない。ぜひお読み戴きたいと思う。
 対話が多い、というのもいい。相手からの信頼ある言葉に応え、また新たに自分の中から本当の思いが溢れてくる。対話とはそういうものだ。気に入らない相手とは、いくら話しても反発するだろうし、気の乗らない相手との対話では、話が続かない。自分の思うことを相手に伝えようというふうにも思うはずがない。しかし、信頼し合える相手との対話には、普通ならば言わないであろうことまでも、どんどん飛び出すものだ。本書は、信頼し合った師弟との間で、そうしたものがふんだんに漂っている。
 傍から見ているだけの読者の一人として、私はその熱い思いを楽しく聞かせて戴いている。学習塾といういびつな角度からではあるが、私も子どもたちと向き合っている。国語も担当することがある。私なりの経験的な国語教育論を少しはもっている。時が経つほど国語力の低下があるのは、身に染みて分かっている。その中で個人的に見出したこととして、ただ自由にやれ、というのでは絶対にどうにもならないこと、「てびき」や助けを差し出すということが大切であること、それくらいなら日々実践していると言ってもよい。
 もちろん、大村先生とは比較にならない。自分で教材をつくり、単元学習を企画し、ヒントも出すが、子どもたち自身はヒントで助けられたなどとは微塵も思っていない、そうしたマジックのような授業を、私がわずかでもやっている訳ではない。ついてきてくれる子は伸びていくが、ついてこられないような生徒のことをどれほど大切にしているか、そこにも自信がない。
 しかし、本書を見る限り、大村先生も、学習塾を批判している様子は少しも見られない。むしろ、入試問題をよく研究し、良い問題をつくりその良い解説をつくろうとすることは、塾がやっている、と評価している。現場の教師が何故解説をしてやれないのか、という点が言いたかったのだとは思うけれども。
 やはり問題は「学校」である。教師が、教えるほかの業務で多忙になりすぎたせいもあるだろうが、教えなくて済むような教育制度改革に対する問題視を、より大きく見ている。そう、「ゆとり教育」による大きな転換である。当時はそうだった。そして、やがてそれの揺り戻しがあり、教育界は極端な意見を行ったり来たりするばかりであろう、というところまで予見されている。そして、子どものためにという、大人の押しつけ気味のお節介の危険性をも自覚している故に、もっと教師が何をするのか、という点を考えてもらいたいという問題提起をしているように窺える。
 本書発行の2年後、98歳にて亡くなった大村先生の、どこか遺言めいたものさえ感じさせるが、教育への危機感を抱く一方、教育についての希望もお持ちだと私は感じている。そこに子どもがいて、子どもに教えたいと願う大人がいるならば、きっと大切なことに気づく人が現れるはずだ。
 本書は発行後20年を経て私の手の内に届いた。もはや戦争を知る教師もいない。「ゆとり教育」から、ますます「生徒自ら問題解決をする方法」へとシフトしており、教師が「教える」ことから遠ざかっている印象さえ与える。さらに、タブレットなどを通じての学びに加え、AIが子どもたちの質問に気軽に応えてくれるという時代になってきている。もしいま大村先生がいて、この様子を見たら、何と仰るだろうか。きっと、苅谷夫妻はそれをもう考えていることだろうと思う。大村先生の授業を何十年先になっても覚えていて、その国語教育の力を次世代に伝える使命を帯びていると思しきお二人が、この新しい教育への歩みが始まろうとしているいま、大村先生から教えられたことを、どのように次の世代に伝えなければならないか、もっと教えて戴きたいと願う。
 それは、ただの懐古趣味とは違う。戦争を通じて、新しい時代は国語教育、ことばの教育が必要だという信念から生涯を国語教育に献げた大村先生の志を、なくさずに次にバトンタッチするための、切実な生き方であり、仕事なのだと私は思うからである。




Takapan
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