本

『小野村林蔵全集第二巻 中期 論文・求道の栞・説教』

ホンとの本

『小野村林蔵全集第二巻 中期 論文・求道の栞・説教』
新教出版社
\5000
1979.7.

 すでに第一巻について記しているので、重複することもここに綴るかもしれないことをお断りしておく。
 北海道の牧師の書いたものについて、教会が丁寧に集め、見事な三冊の厚い本としてまとめろあげた。第一巻が戦前の時代のものを掲載していた。第二巻では、ちょうど日本が戦争一色だった時代のものを集めていると言える。
 まず、「新鉄道唱歌 北海道線」が掲げられる。これはいきなり歌詞だけが並んでいる本文であるため、先に巻末の「解説」を見た方がよいと思う。新鉄道唱歌の懸賞募集が1928年にあり、それに一等に入選したその作品なのだ。本人は牧師という立場のためか、応募をためらっていたのだが、夫人の名で出品したのたとう。
 それは例外的なものとして、松村松年白紙との、科学と宗教についての論争の記録、それからはキリストについての入門的な紹介、またキリスト教そのものの入門といった形の文書が続く。それから、福音書を中心として、短いメッセージが多くならぶと、再び、キリスト教入門というような、初心者に寄り添った説明が長く綴られている。日本の現世利益の目的の宗教とは違うことや、切支丹に対する誤解を解くような、当時の深刻なテーマもそこには混じっていると言えるが、時代が時代となるのであろう、次第に雲行きが怪しくなる。
 当時の人にとっては、仕方がないのかもしれない。いまの視点で見るというのは不公平であることは分かっている。だが、あまりにも次第にそこに、無条件に天皇を崇める思想が色濃く現れて来ることを否めない現状が、目の前に突きつけられる。
 天皇と神とどちらが偉いか。よく言われる当時の問題であるが、小野村牧師は、もちろんその信仰の点では筋が通っている。しかし、天皇を少しでも下げるような発言をすることは、当時は危険であった。そのために、神への信仰と別の次元に天皇を置くという苦肉の策をとった、というように理解したいのだが、いまの私たちの目から見ると、やはりこれはどうしても天皇崇拝の文章なのである。ここに引用はしないが、それも一つや二つといったレベルではない。文章の背後に、天皇を拝する日本の優位性や、アジアへの侵攻が当然正義であることなどが、当たり前に、そして熱心に語られる。
 1944年に、官憲からその発言が目をつけられ検挙され、実刑判決を受けるという事態が起こる。これほど天皇を称えておいても、何か言いがかりをつけられる当時の怖さを感じると共に、牧師自身も、こうした世相の中で、天皇万歳を綴ることに妥協してしまったのではないか、とも感じる。どちらが先かを私は判断する力をもたない。
 現代思想や社会的世相などについての、厳しく鋭い眼差しが随所に現れていることは認めるが、結局教育勅語を称え、その中でキリスト教の信仰というものもちゃんとしているぞと言わざるを得なかった時代がここにある。国体を賛美しなければ、生きてはいけなかった時代なのである。
 いまの時代の私たちはそのようなことをするものか、という自負が、もしあるとすれば、それもまた危険なことだろうと私は思う。庶民も、いつ当局の思想に一気に流れてゆくか、それは分からないと思うからだ。そのような要素は、確かにある。そんなものはあるものか、と楽観することは、私には全くできない。かつてのこの気概溢れる牧師の姿勢が残念であることも、私たちはよく知っておく必要があるに違いない。それは他人事ではないはずである。
 日本的キリスト教というものについて、「福音と世界」が長く連載記事を載せていた。なんでそんな馬鹿なことを、と言いたくなるような人々のことも、私はこの小野村牧師の文章をたっぷりと毎日読んでいくうちに、ごくごく当たり前のことだったのではないか、と考えを変えることにした。ここにあるのは、私たちの将来の姿でないとも限らないのだ、と。




Takapan
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