本

『女の一生』

ホンとの本

『女の一生』
モーパッサン
新庄嘉章訳
新潮文庫
\320
1951.2.

 ずいぶん古い訳だが、さほど違和感は覚えなかった。モーパッサンの、というよりもフランス文学の代表格とされている。先般は、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んだが、それに続いてこの名作を開いたという具合である。そのフローベールの指導をモーパッサンが受けていたというから、確かにそこにいくらかの類似点があるようには見受けられるが、写実主義とでもいうのか、私はこのモーパッサンの、心理をねちねちと追わない手法が、この物語には合っているように思えるのだった。
 ジャンヌは、物語が始まるときまでは幸せだった。無垢で清純な、という表現でよいのかどうか分からないが、ええとこのお嬢さんが、修道院でみっちりと淑女教育を受けると、家に戻る。さあ、これからどんな人生が待ち受けているのかしら。
 ジュリヤンという男性との出会いは、夢見る少女ともまだ言えたであろうジャンヌの、淡い恋への期待を育むものだった。やがて結婚にまで至るのだが、その初夜で、ジャンヌは初めて男というものを知る。これが軌道が狂う第一歩だった。生活の中で、ジュリヤンの吝嗇さや横暴さに、ようやく気づくのだが、気づいたときには遅かった。さらにこの男は、女中ロザリに手を出していた。
 読んでいて胸が苦しくなるほどだが、それでも屈辱に耐え、トラブルを親を初め協力者になんとか収めてもらい、ジャンヌは生きていく。もう愛情など消え去ってしまった。ほんの短い間の恋心は、もう永遠に彼女に戻ってくることがなくなったのだ。
 年老いた祭司は、それなりに頼りになった。ジャンヌの結婚もだが、その後の事件にも、必ずしも全面的にジャンヌを助けたことにはならなかったかもしれないが、双方を立て、どちらをも生かすようにうまく計らうことができた。当時の男社会からすると、男に甘いようにたとえ見えようとも、それが平穏を保つ方法だった。事実村では、性的な風紀は乱れに乱れていたが、それでも祭司は、柔らかく村人を包んでいた。
 カトリックの派遣性の故に仕方がないが、別の若い祭司が村に来ると、もう村の空気は一変した。厳格で信仰に律儀なこの若い祭司は、ジャンヌの一家の不埒なことに対して、呪われた屋敷だと非難する。村人の風紀ももちろん裁きまくる。これでは信頼してもらえそうにない。
 ところで、女中ロザリはジュリヤンにより産んだ子と共に去らねばならなくなったが、このときジャンヌもまた妊娠していた。ひとり息子、ポールが産まれる。もうジャンヌにしてみれば、愛するべき対象はこの息子しかいない。溺愛することになる。他方ジュリヤンはまた不倫を重ね、不幸な結末になる。息子と両親と共に強く生きていくジャンヌであったが、溺愛のせいかポールは勉強など全くしないままに、大人になっていく。
 すでに両親も亡くなり、頼るべき息子は、とんだバカ息子になっていく。なんとか孤独なジャンヌを救うのは、あれから四半世紀、ジャンヌを慕って現れた、女中ロザリであった。ポールと女との間のトラブルを忌々しく思いながら、ジャンヌは年老い、精神も肉体も病んでいくが、ロザリが気丈に振る舞い助けていく。そして最後に、有名な一言をジャンヌに対して告げるという物語である。
「世の中って、ねえ、人が思うほどいいものでも悪いものでもありませんね」
 凡そ全部書いてしまったので、ネタバレとなったことをお許し戴きたい。
 訳者による巻末の「解説」と「年譜」、これがいい。これでモーパッサンについてひととおり知ることができる。もちろん、この作品についてもよいポイントが突かれていて、読後に味わうと少し安心して本を閉じることができた。
 新訳もあるのだろうが、私にはこの訳は気持ちよく読むことができた。名作は、やはりどこかで、安心して読めるものに出会いたいものだ。




Takapan
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