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『音楽の聴き方』

ホンとの本

『音楽の聴き方』
岡田暁生
中公新書2009
\780+
2009.6.

 音楽とか聴くとかいうことについて考えるためには、哲学の本だけで済むはずがない。探していると、評判の良いものが見つかった。いままでこれに出会っていなかったことを後悔するほど、しびれる本だった。
 副題が「聴く型と趣味を語る言葉」とついているが、この意味は読んでみないと分からないであろう。しかし著者が強調する、まさに「音楽の聴き方」がこれに尽きているというのも確かである。その謎解きに挑もうとすればそれでよいだろうと。
 クセとして、本文がどのようにして書かれていったかの舞台裏や動機のようなものを、かなり詳しく語りたがる人のようだ。目次にすら届く前に「はじめに」が11頁、まずある。本論が終わったところで始まる「おわりに」が11頁ある。続いて「文献ガイド」が、決して本の羅列というわけでなく、文章という形で8頁。これで終わったかと思ったら、次に「あとがき」が12頁あった。これら前後の文章だけで42頁を数える。こうして新書としては長めの248頁にわたる(目次を数えず)本ができた。これでこの価格は量的にもお買い得である。
 扱っている音楽は、近代クラシックである。それだけで音楽の聴き方など普遍的な議論ができるのか、という問いかけがくることについては、巻末のほうでしっかり述べられている。それをどうぞお楽しみに読み進んで戴きたい。
 時に美術や文学といった芸術一般への眼差しもふんだんに取り入れ、芸術を取り扱うにあたり「言葉」の大切さを取り上げ続ける本である。いや、言葉になどできないから芸術なのだ、というふうな捉え方もあることは分かっている。でも本当にそうなのか、と著者はぶつける。言葉がないと、思考が成立せず、音楽を聴いている私たちのあり方はないのだという。これが「聴く型」というものである。耳に聞こえるのは、いわば「音」である。しかしそれを「音楽」として知るには、一定の型が具わっていなければならないのだ。だから、全く文化的に知らない世界の音楽が突きつけられると、どのように聴いてよいか、私たちは分からない。クラシックにしても、形式について無知であれば、どう聴いてよいのか分からないのである。
 しかし議論はいきなりそういうところから入るのではない。まずは私たちが音楽を好むそのあり方にじっくり迫る。それが、しだいに音楽を語る言葉へと注目させていくことになる。いや、音楽は言語である、というところにまで私たちを連れて行くのだ。音楽は国境を越える、とよく言われる。確かに、ビートそのものが何らかの形で、他国の曲であっても聴き取ることは可能だろう。しかし、それでいったい何がよかったのか。ヨーロッパにおける音楽の歴史を辿りながら、19世紀の音楽産業、さらに録音文化に至るときに、音楽の受けとめ方は革命的に変化することを読者に覚らせる。途中からアドルノに沿って話が進められるので、読者としては少し構えるかもしれないが、私でも楽しく読ませて戴いたくらいだから、これはきっと垣根の低い話しぶりとなっているのだろうと思う。つまり、著者は説明がうまいのである。同じことを幾度も言っている、というのもある。つまりはこの一冊で、ほんの僅かなことしか訴えていない、というのも確かだろうと思う。だが、それにしても、実際聴いたことがない曲についても、実際に聴いたかのように感じながら読んでいけるのだから不思議だ。フルトヴェングラーとトスカニーニとくれば、少しでもクラシックを聴いたことがあれば、伝説の指揮者のように見えるわけだが、この2人の指揮が全然違うということも、読むだけで実によく分かるのである。
 私は思う。この読者体験こそが、音楽は言語だという、否定仕様のない証拠になっていないだろうか。この本は言語なのだ。言葉で音楽を説明しているのだ。それだけで、音楽について目を覚まされるような体験を読者はするだろう。ということはつまり、言語で音楽が伝わっている、あるいは実際に曲をこれから聴いたときに面白いようにずんずんと感じとることができるだろう、ということだ。
 かつて宮廷音楽や貴族のサロンでの音楽は、社会的ステイタスを示すものだったことだろう。教会なりサロンなりで狭い社会の中で整えられていった音楽が、やがてシンフォニーホールで広く共有できるものとなった。だが当時、人が音楽を愛するというのは、聴くだけのものではなかったという。交響曲でさえ、ピアノ連弾のアレンジが普通であり、自ら弾くということで音楽を喜んでいたそうなのだ。それが、録音技術ができるなどして音楽産業が成立すると、音楽を楽しむというのは、みずから「する」必要がなくなっていく。特定のステイタスの中のものでなくなったのはよいが、ひたすら受身になっていく聴取者は、もしかすると国家のようなものが音楽によって統制して引き寄せていくのにただ身を任せるだけとなっていくのかもしれない。そんな危惧も臭わせながら、いまの時代にアマチュアが音楽を「する」ことから、これからの音楽に期待していくようなふうにも見えた。その「アマチュア」という語は、「愛する人」を意味する言葉だったわけで、それを「下手な素人」の意味に貶めていったのはよくなかったというのである。
 音楽は、言葉を経て、最初はまるで分からなかったものが、自分なりに分かるようになる。それは、ひとつの出会いの体験であり、他者との関係を物語っている。著者が実は非常に強調したいのはここのところだ。自分だけの趣味や体験で済む話ではない。誰かとシェアできる、あるいは語り合うことができる、さらに言えば誰か他者とも出会うことができる、音楽はそのような働きをなすのだという。
 実は随所で触れられているのであるが、この音楽が特に前半で、宗教と類比に扱われているのである。脈絡は伝わりづらいだろうと思われるが、いくつか引用すると、「音楽がかつての宗教にも比すべき祈りに、そして超越的世界の啓示の場になった」(p39)とか「ニーチェの言うところの「神が真だ」一九世紀にあって、音楽がかつてのミサの代理を果たし始めたのだ」(p40)とか並べられる。「「芸術は言葉ではありません、見るのです、ひたすら見るのです」と説くのは、まさに「祈るのです、ひたすら心を無にして祈るのです!」という司祭の説法そのものだ」(p44)あるいは「そもそもバイロイトに限らず近代音楽は、ベンヤミンの言う礼拝の対象であると同時に、公的空間に展示される商品である」(p47)、わけで、「音楽を宗教なき時代を救済する新たな宗教にしようとする勢力と、台頭してきた市民階級の聴衆を相手に音楽でもって商売をしようとする勢力との利害関係がぴったり一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではない」というレトリックだったことが分かる」(p56)と暴露し、身体を穢れたものとするキリスト教の思想に関わることとして、「舞踏と並んで音楽は、人間が動物だった頃の本能を鮮烈に喚起する芸術であるが、総じて西洋音楽は生々しい剥き出しの身体性を蒸溜し、清澄な神の国の響きへと昇華しようとするのだ」(p69)という。
 信仰は言葉ではない、体験だ、という意見も確かにある。信仰に国境はない、などとも聞く。それでいて、信仰によって人々をひとつにまとめるという働きがあるのも事実である。讃美歌という音楽性が重要な位置を占めるのも、無関係ではあるまい。本書の論ずるところをよく考えることによって、宗教や信仰の問題にも深い洞察を行うことができるのではないかという気がするのである。そして、救いの体験が人それぞれ違うのは、音楽に対する感動や思い入れが人それぞれ違うのと似ているようにも見えてくる。これは著者も述べている。
 歴史的に見ると、19世紀のもつ意味が大きいらしい。ある意味でこの19世紀の渦の中にいまなお私たちはいる、と見ることもできるのだそうだ。しかし、このデジタル社会になり、音楽がコンテンツとして個人の求めるままに瞬間的に拡散さえすることになった時代は、これまでの歯車で動く程度の機械から、光の速さで動き続ける電子のレベルで取引されるようにもなっている。ツールがあるため、小学生や中学生でも、簡単に作曲ができるような時代である。言語で学ぶ以前に、感覚だけで音楽が生産されていくようになるとき、もしかすると言葉の軽視や、言葉をする道具として扱っていくような方向に舵が切られているのではないか、という危惧もある。著者は、音楽は言葉であるとしたまではよかったが、その言葉自体の危機があるとすればどうだろう。それは、読者が受け止めて警戒しながら考えていかなければならないテーマであるように思われてならない。




Takapan
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