本

『思い煩いからの解放。』

ホンとの本

『思い煩いからの解放。』
J.E.ハガイ
湖浜馨訳
いのちのことば社
\1456+
1974.10.

 懐かしい本である。新装版が1990に出ていて、それを入手したのだが、こうした本は、ひっそりと古書店の片隅に並んでいる。ちょっとした宝物を見つけたような気になる。
 私が信仰を与えられるよりずっと前に書かれたもの。それは、私がこの道に入ったころにも、ひとつの模範のようなものとして学ばれていた。
 確かに日本では戦後、3度目とも言われるキリスト教ブームがあったが、その後はまた落ち着いていった。そうした国であっても、これだけミッション系の学校がそれなりの好意で迎えられているというのは不思議なことだ。それはともかく、その信仰は、極端な情熱の信仰に傾かず、知的な、という言葉が適切であるかどうかは分からないが、落ち着いた信仰だったように見える。悪く言えばおとなしい、とでも言えばよいだろうか。
 だが、福音派と呼ばれてよいような方向の教会では、厳しい生活指針もあり、さらに「きよめ」ということを重んじると、たとえば神学校でも、頭脳での学びに留まらず、修行とも言えそうなものとして理解されていたように思う。
 そこまでいかなくても、クリスチャンが実生活の中で、キリストの救いや愛を生き生きと働かせることは、守るべき方向性であったといえよう。清い生活をするにはどうすればよいのか。喜びの生き方とは何か。愛の実践のために心得ておきたいことはどういうことか。そのための聖書の読み方とは如何なるものであるのか。こうした点で導き励ますような本が、多々あった。
 聖書の読み方というのが、そうした目的に基づくものであったため、文献批判だとか、聖書の歴史的価値だとか、そうした学的研究的な関心は薄かったのである。良いか悪いかは分からない。ただ、その後半世紀を経た時には、信徒はすっかり頭でっかちになっていないかと懸念するものである。
 副題は「全き平安を約束する聖書の心理学」という。タイトルの「思い煩い」との対比として、そこから解放されて行き着くところは「平安」だということになる。非常に分かりやすい。そして、本書は、短い章立てで25の知恵が並べられているという構成をもつ。イラストも何もなく、信仰書と呼ばれる典型的なものである。それらの項目は、ひとつにつき平均7頁という読みやすさもあり、日々少しずつ読んでいくのがよいのではないかと思われる。月に一度ずつ読み終わるわけなので、日課のように読むことも有効であるだろう。
 私たちは日々「思い煩う」ものである。それは心が二つに分かれることだ、という説明は有名なものであるが、本書では、そうした点ももちろん漏らさないし、生活の中で私たちが陥る、様々な「思い煩い」に、豊かな実例と共に焦点を当てていく。案外、私たちは思い煩いについて、気づいていないのかもしれない。つまり、何か分からないが不安で仕方がない、しかし指摘されてみれば、それはまさしく「思い煩い」であるじゃないか、そう気づかされる、といった事態が、適切な説明となっているような気がしてならない。
 適切な意識は、物事への対処の仕方への第一歩である。こういうのが確かに「思い煩い」なのである、と筆者は説く。読者は気づく。そうだ、自分は思い煩っていたのだ。心が神へ向いていたのは事実だとしても、もうひとつ別のことに気を取られていたのだ。
 生活の実例がとてもよい。どこかで自分の問題はそれだ、という点に出会うだろうと思う。これらをすべて免れている人など、きっといないだろう。
 構成としては、10番目から、「平静へ」という言葉のつくタイトルに変わり、つねに行き着く先の平安へと視点を定めていく。そこまでは分析に徹していたとしても、ここからは総合である。私たちは希望をもってよい。明るさが与えられているのだ。その提言の中には、自分にはできそうにないことがあるかもしれないが、できること、しなければならないことも、必ずある。
 そして21番目からは、「祈り」について進む。そう、究極の目的へ至る最善の道は、この「祈り」なのである。そこに気づけば、最終項目で「全き平安」というゴールが紹介されることで、安心することだろう。本書もまた、平安への道のりであったのだ。
 ここで本書の知恵を一つひとつご紹介しなかったことは、皆さまへ失礼であったかもしれないが、これはやはり最初から手にして、一人ひとりが旅を経験していくようなものであるはずだと思った故である。黙想の本は、やはりいいものだ。決して古いというものではないはずであり、澪標となるものである。ありがたいものである。




Takapan
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