本

『思いがけない言葉』

ホンとの本

『思いがけない言葉』
上智大学キリスト教文化・東洋宗教研究所編
リトン
\2200+
2004.11.

 この素晴らしいシリーズを知ったのは最近である。カトリックの大学の重鎮の方々が、あるテーマで毎年考究しそれを提示する。というより、世に問うている。この問いに私たちは応えようと挑まなければならない。
 今回は2003年の聖書講座での講演が集められている。この講座は1974年に始まっているという。今回は「思いがけない言葉」というテーマ、つまり詩編81:6の言葉からである。それを、聖書の中で見過ごされがちな部分に光を当てるという意味で、サブタイトルにある「聖書で見過ごされている文書」という文句がずばり物語っている。論者が密かに思う隠れた名所を披露してくれる、と言えばあまりに俗的な言い方になるだろうか。
 しかしすでに「まえがき」で明かしているように、「聖書の中で忘れられている作品に読者一人ひとりの「わたし」がいままでそこには含まれていないと勘違いしていた声・言葉が聞こえるようにする橋渡しをすること」(p3)が狙いである。本書の意義は、この言葉に尽きているように思う。そしてそれは、聖書を読む上で私たちが常に意識していなければならないことであり、私たちの命がそこにかかっていると言って過言ではないほどの真実なのである。
 タイトルと筆者だけを並べる。
 「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」――試練に満ちた人生を生き抜く信者への勧めとして―― (森一弘)
 若いときの妻を裏切ってはならない (雨宮慧)
 エステル記を読む――終末論のプロット (佐久間勤)
 ペトロの第二の手紙 (小林稔)
 ユダの手紙――旧約伝承と説得のレトリック (高柳俊一)
 よくぞこれだけの面々が、こんなに魅力的な題材を提供してくれるものと涎が出そうなくらいの内容である。そして、その内容もタイトルからの期待以上のものであった。もちろん、通読にしろなんにしろ、これらの聖書箇所を外して読んでいるわけではない私であるし、それなりに学んではいるつもりだったが、こんな説明があるのかと驚いたり、その説明手法と、当然知らない様々な学説を惜しみなく披露してくれるこの小さな本には、ただ感謝するばかりであった。
 カトリック的であるかもしれないが、神との結びつきの道が祈りであるということを、聖書から聴くことにより私たちに提示してくれたり、神の名の登場しない不可解な聖書としてのエステル記についてこんなにその構造を明らかにしてくれ、私たちの霊的な戦いとはどういうことであるのかをじっくりと教えてくれたりもした。体の復活という教義の中に、その体が如何に不完全で頼りないものとして捉えられていたものであったかを突きつけてくれることによって、私たちの思い込みや勝手なイメージが如何に聖書の理解を妨げているかを改めて思い知る気もした。神はそのようなぼろぼろの私たちの体をも受け容れていたということで、単に魂だけを分離するような浅はかな思想を粉砕するのである。
 プロテスタント側がカトリックを遠ざけているのは実にもったいない。というより、教義のごとく思い思いに自由な指摘をするプロテスタントは、確かにそうした眼差しも有用であることは確かなのだが、それに惑わされていると、足場を見失う虞も当然あるということに、今更ながら気づかされる。まさに、風に吹かれて揺れ動く海の波のようになっていないか、顧みる必要があるように思わされる。私はこうしたカトリックの研究にずいぶんと教えられている。結婚しない神父が、聖書に集中して向かうときに気づくような宝を分けてもらうような思いで、これまでも尊敬して読ませて戴いていたが、さらに教えを請うようでありたいと、また思うひとときを与えてくれた本であった。




Takapan
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