本

『置き去りにされた高校生たち』

ホンとの本

『置き去りにされた高校生たち』
朝比奈なを
学事出版
\1800+
2019.3.

 前著なるものがあるそうだ。『見捨てられた高校生たち』というから、コンセプトは本書と同じようなものなのだろう。恐らくアプローチが違うのではないかと思うが、今回そちらのほうは扱わない。
 タイトルの横に書いてある。加速する高校改革の中での「教育困難校」。教育困難高が赤文字となっており、著者の作り出した語であるらしい。  現場に立ち、様々な相談をも受けているらしい。そこで得られた事例をも、プライバシーには配慮しながら掲げてくる。そのリアルさも加わって、なかなか説得力のある著作となったように見える。
 しかし、置き去りにされたというイメージから、テレビドラマでよくあるような、暴力的な雰囲気の高校のことかと思わせる空気が世の中にはあるかもしれない。事件報道としても、暴力シーンが撮られていたのが出てくるというのもある。しかし、本書にはそうしたものは出て来ない。教育困難ということで、何かしら学習に問題を背負った子どもたちのことなのである。それは学習障害を含んだものでもあるが、必ずしもそういう障害に限るということもない。
 経済的理由からそういう底辺の高校に行くことになった事例もあるし、性格は実におとなしくて素直だが単に勉強に難点があるということもある。著者は、ヤンキーと呼ばれるような生徒もいることは認めるが、それを含めて、このように4つの類型に分ける。恐らくそれでだいたいのタイプは分類できるという。それぞれにわたり、問題も対処法も異なってくるのである。それはその現場に携わってみなければなんとも分からない。それに、その現場において教師たちがどれほど労苦しているかも少しだが紹介する。
 もちろん最も苦労するのは生徒たち本人である。苦手だから克服しようと努力せよ、と傍観者は言いたいかもしれないが、そのためには強い自己肯定感が必要になる。それが低い子どもたちがこうした問題を抱えてそこにいるのだとしたら、勉強になど価値を置くこともないし意欲も湧かないというのである。また、一定の成果を上げた学校の例が世で騒がれることもあるが、いわば成功例の現れた高校には、その陰に必ずそれに合わずにドロップアウトする生徒がいるわけで、なおさら辛い立場に追い込まれていく個人がいるのだともいう。現実の現場ではそうした一人ひとりのことが目につくのだ。経済性ということで捉える政治的な眼差しからは気づくこともなく、無視するしかないような子どもたち、それがこれからの日本を支える一人ひとりではないのか。
 著者は「はじめに」で、どうも教育者や教育行政に携わるお偉い方は、子どもたちを安易に「人材」と考えているようなふしがあることを見抜く。人は材料ではない。道具ではないし、何かしら大義名分たる目的に仕えるために取捨選択されてよいものではないはずだ。そこに著者の怒りのようなものを私は感じた。人格を道具に見なすのは、権力があったり知恵があったりして、社会的に立場のある人々だ。こうして考えてくると、戦争を起こす者と実際に戦地に行く人との差のようにすら思えてくるから不思議だ。
 親や家庭の問題というのも確かにある。親もまた教育程度が高くないとすれば、親は「子どもの好きなようにさせたい」というくらいしか言えず、また昔の常識で今の教育事情を考えてもらっても、解決の邪魔にしかならないかもしれない。子どもが現実離れした夢をただもつことをがんばれと応援するのは、美しい物語のようだが、むしろ残酷なことなのだ。
 教育困難の中にある子どもたちは、しかし感情的に物事を捉えるだけだからダメなことばかりなのかというとそんなことはない。沖縄戦の話をすると、心動かされて、本当にすばらしい集中力を皆が示し、戦争への怒りや悲しみを表に出してぶつけてきたというのである。ストレートな感情表出は、案外最も健全な世の中をつくるための大切な契機となるのではないか。こうした人を押しつぶして能率的な世の中になったところで、それは危険な、操りやすいエリート意識の兵隊ばかりということになるかもしれないのである。
 ただ、困難を抱えている高校生たちは、考える訓練はできていない場合が多い。何が問題であるかを考えるためには、ある程度の知識も必要である。知っているからこそ、そこに問題があること、それが問題であることを理解することができる。そして私たちおとなもまた同様である。
 新たな教育改革に対して、著者は概ね賛同の意を示しながらも、こうした困った子たちをどう育てていくか、教えていくか、そしてそのための教師や経費を準備するかということまでも問う。そう、教育は実に非能率的で非効率的な経済事業である。しかし、経済性を度外視してでもやらなければ、その国は百年後を持たないようになってしまうかもしれない。このような高校生たちが少なからずいるということで課題として上がってくることは、中堅校における教育にも影響があるはずである。ひいては、そこから国民の多くがつくられる将来のこの国のあり方に関わってくるのである。
 なお、本書は切実なテーマと事例を多数紹介し、事態を読者に理解してもらうために、ストレートな表現をどんどん使っている。だが、読者の中には「底辺校」というような言葉に傷つく場合があるかもしれないし、あまりにも類型的に、何々の仕事に就くことが社会的にダメであるかのような印象を与える表現も多々使っている。著者が職業的な差別感をもっているわけではないことを信じたいが、確かに、そうした職に現に就いている人がこれを読むと不愉快に思うであろう、というような感じの表見が、随所に見られる。これ以外の表現だと真っ直ぐに伝わらなかったのかもしれないが、公に出て行く本という性格上、それを読むのが誰であっても差別感を与えないような、不愉快さを強く懐かせないような配慮というものについて、一考をお願いしたいものだと思った。




Takapan
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