『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』
林博史
集英社新書1260
\1130+
2025.4.
帯に、「沖縄戦史の決定版!」というので、最新の情報と捉え、購入した。
著者にはすでに、沖縄に関する著書が幾つかあるようだが、今回は特に広く読者に読んでもらいたいということで、新書形式にしたのだ、というようなことも書いてあった。
力がこもっていた。しかし、これは史料や記録を知らせるものではない。著者の強い主張がこめられており、沖縄の人々を殺したのは誰かということで、厳しく為政者を突き上げていた。
日本軍が住民を殺した。そう言うと、直接殺したことは稀だ、というような反論が出るだろう。実際、殺した例は数知れないはずである。投稿しようとした住民を非国民だと殺したというようなレポートが多々載せられている。ガマで泣く子どもを殺せと強要した例もある。だが、問題はそういうことではない。皇民化教育を含め、投稿したらアメリカ軍に残虐に殺されるから、そうなる前に潔く死ね、と吹き込み、手榴弾を配っておくということをも含めて、著者は、「殺した」という部類に数えているように見える。私ももちろんその考えに賛同する。情欲を抱いて女を見た者がすでに姦淫の罪を犯している、というような福音書を信頼している者であるから、日本軍の責任について、殺していない、などという言い方をしてよいとは少しも考えない。
実際に殺してもいることが、本書からよく分かる。アメリカ軍に助けを求めようとした者や、投降しようとした者は、日本兵が殺した。何をしたわけでもないのに、スパイ容疑で即刻殺した、ということは枚挙に暇がないようだ。
死なずに済んだ多数の住民がいたのだ、という指摘は、歴史に「もしも」を持ち込むことの非を述べないとするならば、確かにそうだ。日本社会は、ある意味で狂っていたのだろう。否、いまが狂っていない、とも思えない。判断する自身が狂っているならば、自分は狂っていない、と主張することも信用が置けないということになる。
日本軍だけではない。著者の非難は、政府にも及ぶし、また天皇にも手厳しい。天皇の地位の危機を乗りこえるために、ポツダム宣言即ち降伏勧告の受諾を引き延ばしたことの責任を、天皇の内にある、と強く指摘する。原爆のことはこの宣言について言えることなのだろうが、沖縄についても、捨て石としたことについて、天皇の判断の責任を鋭く問うものであった。
本書は、沖縄戦へ至る背景からアプローチする。琉球王国から説き起こすのである。また、沖縄出身兵士の扱いについても言及し、沖縄が日本の中で特異な位置を示していたことを指摘する。そうして、「沖縄の戦時体制」というものについて、実際の例を挙げながら、様々細かい点を読者に示してゆく。もちろん時に資料やデータを多く用い、当時何が行われていたかを綴るが、資料集のようには用いず、著者の言おうとすることの検証のために使う。客観性をもつデータももちろん多いが、従来の沖縄戦に関する書物の指摘を引用することも多い。そしてそれは、沖縄の側に立つもので、沖縄の立場からの訴えとなっていた様々な本を援軍のように繰り出すのであった。
集団自決について、必要以上に生々しいレポートをしているわけではないが、それがどのようになされていったかについては、怒りをこめて綴っているように聞こえてくる。その強い意志が伝わってくる、と言えばよいだろうか。
自ら殺し合ったのだから、軍に責任はない。そのような理屈を、いったい誰がまともだと考えるだろうか。軍人の強奪や酷い犯罪、そして何よりも洗脳的な、死へ促す言葉と強要など、読んでいて苦しくなることばかりである。
軍へと動員された民間人のことも、詳しく記されている。もちろんひめゆり学徒隊のこともあるが、それだけを取り上げて強調することはない。その事件は、沖縄戦のひとつの例に過ぎないのであり、沖縄は全体として、酷い殺人の中に置かれていたのであるからだ。
沖縄戦について私は幾らかは知識があったので、読むことについては特に抵抗があるわけではない。だが、もしその実際について、詳しく知らなかった人が本書を読むと、ずいぶんとショックを受けることだろう。だが、ショックを受けてほしい、と私は思う。私もかつてそうだった。知ることは、大切なのだ。知るべきなのだ。
しかし、戦争を知らない世代が大半となってからは、ともすれば戦争を美化する動きも見られる。著者は、美談にするような気配を徹底的に省こうとしている。ひめゆり学徒隊のことを必要以上に取り上げなかったのも、そのせいであると思う。
様々なケースを拾っている。朝鮮人や慰安婦、移民も取り上げるし、アメリカ軍兵士サイドからの沖縄戦についても触れている。
このように見てくると、如何にも日本軍が悪く、沖縄の人が被害者である、というふうにばかり主張しているのだ、と思う人が現れるかもしれない。私は、この著者については違うと思う。というのは、沖縄の人が駆り出され、あるいは兵隊となってということも含むが、実際加害者として力を揮ったという結果についても、強い口調で伝えているからだ。その意味では、公平さを保っているのだと思う。
その意味で、本当に著者が憤っていることについては、「おわりに」という巻末のところを丁寧に読むとよいと思う。そこには、軍人だけを祀る神社の有様などのほか、犠牲者のお陰で平和がもたらされた、というよくある言い分について、徹底的にノーを突きつけている。それは「死んでくれたほうがよかったと言っているようもの」だ、と指摘するのである。また、「仕方がなかった」という心情は、「あたかも戦争が自然災害だったかのように扱う」ことだと言い、それ故に責任者をも免罪してきた、と厳しく追及する。
それよりも、「日本という国家がなぜそうしたことをおこなったのか、それを改革し二度と起こさないような国・軍(自衛隊)・社会をつくることができているのか、など自らの問題として考えようとはしない」という批判が、実に重い。「日本自身の問題であることから目を背け続けている」というのは、その通りだと私は思う。そして「沖縄戦さえも本土人の「癒し」と自己満足のために消費されているだけの現状に、このままでいいのだろうかという問い直しをしなければ、という問題意識」が、本書を強く支えていることが明らかにされている。
1986年に研究を始めて以来、著者の熱意がこれほどに溢れた本があっただろうか、と思えるほど、強く迫るものがある。感情的ではないからこそ、迫ってくる。多くの写真も収められている。多くの人の手に触れて、読まれて、そして沖縄への同情ではなく、自分自身のこととして、自分たちの未来のこととして、胸に結わえつけていてほしいと願うばかりである。

た
か
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