本

『続・沖縄戦を知る事典』

ホンとの本

『続・沖縄戦を知る事典』
古賀徳子・吉川由紀・川満彰編
吉川弘文館
\2400+
2024.6.

 2019年発行の『沖縄戦を知る事典――非体験世代が語り継ぐ――』の続編であるという。戦後生まれの執筆者たちにより、どちらも編まれた。聞き書きの必要性を覚え、とにかく人と出会った。近年は、直接聞く機会が徐々に減っているため、今後の方法には工夫と見通しをつけながらも、とにかく今聞かねば残らない、という強い意志を以て、多くの人に直接見えたのである。このフィールドワークについては、それなりに記してあるのだけれど、読者はけっこう軽く読み飛ばしてしまいそうである。確かに、現場の人でなければ、そこに書いてあることやその意味、苦労などは分かるまい。私もさらりと読んでいった一人である。しかし、記念碑的でもよいから、やはりそれは書かれてあってよい。書かれていなくてはならないと思う。この次、この仕事を受け継ぐ人への、強烈なメッセージとなるからである。また、読者も、そこに巻き込む力を必ず有しているからである。
 今回の副題は「戦場になった町や村」である。これは本書は「地域史」だと呼んでいる。地域毎に編集されている。そう、沖縄戦と言っても、その場所によって、意味合いがまるで違うのである。戦場としての具合ももちろん違う。しかし、これは読者にも届くとは思うが、日本軍の兵士が住民にどう関わったか、という点が、その場所によって生々しく異なるのである。米軍との緊張感も違うし、住民の中に、勇気ある人がいたかどうかでまた違う。しかし、少々の勇気があっても、普通事態は変わらない。銃剣を振り回して、軍隊の論理を貫き通す。こうなるといったい、誰が住民の敵なのか、というと、実際は記述の殆どの場合、米軍兵ではなく、日本兵であるように伝わってくる。現実に住民が接触するのは、もちろん日本兵が多いわけだから、それが住民に刃を向け、強引に命令を下す。そして、赤児を含め、日本軍の兵士が、うるさいと殺すなどをしたことも記録されている。そうしたことは、他の証言でも私は度々聞いている。集団自決という、どこか責任逃れのような表現を使うしかないが、実質、軍が住民を殺したということも、生き残りの人を通じてわずかに聞こえてくるに過ぎない。ガマの入口で手榴弾が爆発すれば、もういまこそだ、と連鎖的に奥のほうへと爆音が響く。恐ろしい地獄絵である。
 教育のせいだ、ということにも、多くの人が気づいている。噂のような形であって、いつしか確信のように、米軍が来れば男は戦車の下敷きに、女はすべて強姦される、というふうに思い込まされたことが、互いに刃物で殺し合うことや、手榴弾を爆破させることのほうを、まだよいことだ、という価値観で固めてしまったのだ。
 みんな精神的に異常な状態になっている。振り返れば、それが分かる。振り返らなければ分からないし、銃剣で脅す軍人には逆らえないというのが、なんとも悲しい。
 こうした証言は、各地から聞かれる。特別なある場所だけではないのだ。本書は、南部・中部・北部・周辺離島と大東島・宮古と八重山の五部に分かれ、一つひとつの町ごとに記録が区切られている。いまの「市」は、えてして昔の市や町や村が編成を変えて成立しているが、そうした歴史も書かれている。地図や写真も豊富で、資料性も高い。それぞれの自治体で、どういう対処がなされ、どういう戦闘と被害があったのか、それも細かく調べられている。これだけ調べただけでも、敬服するしかないと感じる。
 久高島にも頁が割かれているが、ここには独特の文化がある。もちろん沖縄全般に、ヤマトとは異なる文化があるのだが、久高島だと、私有地という考えがいまなお薄く、カミ宿る島として、女性を尊ぶイザイホーという儀礼がある。近年なかなか開催できないそうだが、本書では、女性だけの部隊があった、ということが書かれてある程度であった。もちろんそれはそれでよいのだが、本書では、そうした文化的背景については、触れるスペースがとれなかった。沖縄の人々が、どういう文化をもっていて、それを皇民教育がどのように変えてしまい、その結果どのようなことになったのか、こうした文化的な視点というのも、将来どこかで考察してもらいたい、と私は期待している。あるいは、このグループだけでなくてもよい。沖縄の文化との関係で、この軍国教育に染められていくことを批判する眼差しを、誰かが大きく取り上げてくれたら、と願うのである。
 政治制度もまた、文化を背景に成立するのだと思う。文化を二次的なものにして、政治や軍備を議論するだけでは、表層的に留まり、軍事的論理に、かつてと同じようにまた、掬われてしまうかもしれない、と危惧するからである。




Takapan
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