本

『置かれた場所で咲きなさい』

ホンとの本

『置かれた場所で咲きなさい』
渡辺和子
幻冬舎
\999
2012.4.

 テレビで紹介されるところを偶々見た。
 これは沢山読まれてよいと思った。
 すると、やはりテレビの影響もあったのか、沢山読まれるようになった。
 私はプロテスタントの一派であり、カトリックの信仰を決して理解しているなどとは言えない。だが、カトリックの人々の生き方の中に、ほんとうに尊敬できる人がたくさんいることを知っている。このいわばシスターの手による本にも、背筋がしゃんとしていないといけないという思いが伝わるに十分だった。
 信仰を押しつけるようなところはなく、一般の人のために書かれてあるのが、生き方に灯や針路を求める人々の心に適う。しかしまた、聖書の言葉がさりげなく掲げられたり、伝えられたりすることももちろんある。伝道を目的とするならば他にいろいろな方法もあるのだろうが、あからさまにそうではないにしても、まずは人目に触れなければならないし、そうしてキリストの言葉がじわじわと浸みていくとすれば、それもまた素晴らしい。
 そういうわけで、私は当然のことながら、ただの人生論としてではなく、神の言葉の受け取り方や活かし方という意味で、この本の言葉を味わうことにした。
 幻冬舎という、売り方について角川以上の方法をもっている優れた出版社の手によるものであるせいか、本の構成や仕様もなかなかのものだ。なにしろ、読みやすい。よい言葉がその項目の最後に、大きく掲げられているなど、心に言葉が残るとはどういうことか、よく知り抜いた作り方をしているように見える。
 もちろん、テクニックだけで本は共感を得られるものではない。第一に、その内容に輝くものがあるからだ。真摯なものを求めたいという思いに応えるだけの、真摯な人生がそこにある。しかもそれは、自分の体験に基づいたものであり、また、決してお高くとまったような視線を感じさせることがない。キリストのように、地べたを這い回るような感覚で、振り絞るように言葉がにじみ出てくる。人は、そういうところに真実があることを本能的に知っている。
 そうした姿勢が、「はじめに」でいきなり出てくるのもいい。「修道者であっても、キレそうになる日もあれば、眠れない夜もあります」と始まるのである。
 後半では、聖書の言葉も絡んでくる。控え目に、伝道を試みているのかもしれない。どうしても先走って、聖書にはこのように書いてある、と掲げてみたくなるのが信徒の悪い癖だが、そこはもっと自己の様々な思いと戦ってきた歴史の長い方の文章である。誰もが手を繋ぎやすい形で手を差し伸べておいて、その後、さらりと聖書の言葉を根拠として持ち出す。すると、聖書を読んでみたい、という気持ちに、よりなりやすいものであるのではないか。
 それは計算や打算でできることではない。やはりいくつかの著書の中で、著者が培ってきた、あるいは教えられてきた方法なのだろう。大学で学生に話すのときっと同じ感覚で、どうしたら掴んでもらえるのか、聞いてもらえるのか、熟知した方の、すばらしいかきぶりである。
 こうした形でキリスト教の精神が伝えられるのも、いい。実は、私の教会にも、以前からの著者のファンがいる。そうした魅力は、まさに芳い香りを放っているが故なのであろう。たくさんの方に、読んで戴きたい本のひとつであり、またそれは十分可能であり、そしていまや大いに売れ、書店に積まれている。




Takapan
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