本

『丘の上の邂逅』

ホンとの本

『丘の上の邂逅』
三浦綾子
小学館
\1470
2012.4.

 三浦綾子さんが召天して、もう13年も経つ。90の齢を数える今のことを考えても仕方がないのだが、多くの文学を世に送り、しかも何か一風変わった文学の世界を示してきた。それは、その文字や作者の、さらに向こうに「何か」があることを感じさせてきたからである。
 どういう経緯で今回この本がまとめられたのかは知らないのであるが、各方面に書かれた短い随想やコラムのようなものが集められたというふうなのであろう。とくに、旭川における人との出合いがここには多く掲載されている。だからこそ、このタイトルなのだろうとも思う。
 この本の題にもなった「丘の上の邂逅」というタイトルの短文が中にある。かつての教え子から突然、会いたいとの電話。そして会って聞かされた近況の中で……という具合なのだが、ほかにもきらりと光る短文はこの本のあちこちにもあり、この話が全体を代表するほどの輝きがあるのかどうか、という点には賛否がいろいろあることだろう。だが、このタイトルはいかにも、この本の全体のテーマに即している。主にそちらの方面から、選ばれたのではないだろうか、とも思うが、そこには、不完全な存在にすぎない人間というものがたしかに描かれていた。200頁に少し満たないだけの量の本のちょうど真ん中あたりにそれは置かれた。もしかすると、ちょうど100頁という場所に置いたことは、深い意図があってのことかもしれない。それくらい、この本には、見出そうとすればいくらでも宝物がある。
 著者は、つねに人間の罪から目を背けなかった。それは自分を見てのことでもあっただろうが、世間の中にある罪についても、遠慮はしなかった。人間はそういうものなのだ、という、きっぱりとした人生観があった。プロテスタントの信仰に裏打ちされたその生き方は、いや、ほんとうにその発する言葉のひとつひとつにおいて、神が今聖書を書かせればどのようなことを書かせるだろうか、ということを私たちに教えてくれるようなものであった。
 それにしても、これほどに多くの人の実名を入れて紹介してよいのだろうか、と思うほどの書きぶりである。よいことばかりではない。広く知られれば立場上まずいであろうようなことについても、実名でその人物を描く。もちろん、存命の人々である。今は少しこのような書き方については、厳しさが伴っているのかもしれない。ただ、著者は、概して人を褒める。とくに名前を出すときには、その人の生き方を肯定したり、あるいはその人が尊敬するに値する人であることを明らかに示したりしながら、やっている。罪人の頭である自分に比べれば、どんな人も優れているように見える、というような捉え方なのだろうか。その信仰の姿勢と生き方が徹底して伴っているのが、まだ清々しい。
 カトリックと違い、プロテスタントには修道女といった制度はないが、これはプロテスタントのやり方における修道者ではないかとよく感じる。私などは頭が上がらない。
 この三浦綾子さんの小説をふと目にしてから、私は神に引き寄せられていった。間違いない、その一人である。偲びつつ、自分がまた生き方を問いかけられている自覚をもつ必要があることを強く感じた。




Takapan
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