本

『老いを創める』

ホンとの本

『老いを創める』
日野原重明
朝日新聞社
\1200
1985.3.

 初版の一年後に第13刷と書かれているので、たいそう読まれたものであるらしい。地味な表紙に、「創める」とはどう読むのだろう、という引っかかりを与え、時すでに70を超える齢の著名な現役医師が訴えるとなると、世間の関心も呼んだのであろうか。
 テーマは決まっている。「老い」である。老人問題を扱っている。著者自身がその領域に入ったという自覚の上で、しかも自分より年上の患者を数知れず診、またこの世から見送ったという経験の中で、知り得たことを綴っている。それも、様々な公の組織に対して訴え、「生活習慣病」という呼称の変更をさせるなど、医学や福祉の領域に大きな業績をなした人である。人々が関心を寄せない理由はない。
 本書の「序」で、まず「昭和五十九年の一月から半年の間、毎週一回、私は朝日新聞の『みんなの老後』の欄にエッセイを連載した」という文を掲げ、それが読者から本にしてほしいという要請があったため、さらに本としてまとめるために、四季に沿う形で秋から冬の季節になぞらえる形で補足したのだという。従って、実際に新聞連載をご存じの方も、それに加えた内容を楽しめることになっているようである。
 ここにあるのは、現場の医師ならではの様々な出会いや経験はもちろんのこと、医療制度についての発言も多い医療全般への眼差し、さらに常にデータから目を逸らさない、現状把握の姿勢など、根拠ある提案や感想である。そして、何よりもキリスト者として、人を神との関係からも捉える心をもち、聖書の精神を言動に活かす信仰が背後に働いているとなると、それぞれ数頁のエッセイであっても、深みが違う。
 もちろん、いま私が読んだのは、発行から40年を経過しているから、用いられているデータは現状とは異なる。だが、その後は著者が指摘している問題が解決されるというよりも、ますます悪い方向に進んでいるように見える場合が多い。医療現場そのものと、広い医療界とを知る人の提言を、為政者が軽くみてはならないことの証左であろう。
 そう言いながらも、著者独自の感覚や感想というものを、読者は耳を傾けてみたいものだと思う。例えば「私は思う。老いは暦年齢や人間の機械的生産性で片づけてしまえるものではない。これから先、私も老いに挑戦したり、なじんだりしていかなければならない」(p13)とは、本書を手に取った誰もが身に染みる言葉ではないだろうか。「若く生きる秘訣は、若く生きている人に出会うこと、そのように生きた友や師をもつこと。そして、つとめて命のうえれた幼子に触れることである」(p43)など、子ども相手に仕事をしている私から仕手も、真実だと言えよう。だから、「老人は病んでも、自らを老いの中に幽閉してはならない」(p44)のである。
 驚いたのは、よく「ニーバーの祈り」と紹介されている、「神よ、変えることのできないものは……。変えることのできるものについては……」という祈りが、18世紀ドイツのルター派神学者フリードリッヒ・C・フォン・エティンガーの祈りの言葉を借りて、1934年の礼拝で献げた祈りだという記述である(p54-)。
 それから、ヘロドトスの言葉、「平和の時には、息子らはその父を葬り、戦いの時には、父たちはその息子を葬る」(p92)が紹介されたのは衝撃的だった。来栖三郎大志が戦死した息子の墓石に刻んだ言葉だという。すでに「老い」の話題とは異なるが、突然に失われる命の指摘は、老齢者の生活環境への政治的な配慮への提言へとつながる、厚みのあるものとなっていった。「日本では児童福祉同様、あるいはそれ以上に、老人の福祉は遅れている」(p102)の指摘の通りである。
 また、このような医師でありながらも、「音声になった言葉によるコミュニケーションは、人が心豊かに生きるためには極めて大切なことであることを……患者さんからその時初めて教えられた」(p112)と、耳の聴こえぬ人の心理をご存じない」と言われたことから猛省していることもきちんと書かれている。ろう者への関心は、その後手話がちょっとしたファッションのようになって、幾らか改善されてはいるが、こうした配慮や気づきについては、やはりまだまだ滲透しているとは言えない。
 医学はひとの命を救うのか。否、結局は死を避けるように仕向けることはできない。「私たち医師は、人間の痛みや苦しみをできるだけやわらげるように医術を用い、人々が人間らしく感じ、考えられるような状況に人々を置く勤めを果たそうと努力している間に、人々の生命の終焉がくる」(p141)に過ぎないのだ。そこで、宗教ということにも、触れる場面がある。「生きることが辛くても、望みに立脚しつつ己を空にして、他者が差しのべる手を素直に握る働き――それが宗教における信仰だ」(p159)と、波多野精一先生の言葉から学ぶのである。そうして、ホスピスの価値をも説明してゆくことになる。
 また、老人が社会に尽してきたから尊敬しよう、などと「敬老の日」が謳っているが、それは「とんでもない理解」だ、とする法学者の言葉をも紹介している。「老人はただ個人として敬愛されるのであり、社会に尽くしてきたから、その返報として敬愛されるというような取引勘定ではない」(p190)というのである。
 うつ病の対処や文化国家の意義など、気付いたことや、ふだん思いを秘めた事柄について、多岐にわたる発言があり、読者を厭きさせることがない。
 特に私が注目したのは、「音の公害」(p225)という指摘である。これについて私は散々指摘しているが、一般にこのことは少しも世の中で話題にされることがない。殆どの人が加害者であり、加害意識がないものだから、音の暴力ということなど、微塵も考えていないのだ。これを、日野原先生はきちんと指摘している。最後に、そこを引用することにする。
 「音の公害。とりわけ人の声の公害を特記したい。カラオケ公害出なくても、ホテルやお店で人が群れをなすと、傍若無人の声高である。選挙の候補者の連呼のホーンも非常識である。」(p225)
 電車の中の密室でのそれは、暴力以外の何ものでもない。それとも、暴力ではない、と証明できる人がいたら、やって戴きたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります