『大江健三郎自選短篇』
大江健三郎
岩波文庫
\1380+
2014.8.
こういうものが出ていたことに、当時気づいていなかった。840頁を数える文庫は、東野圭吾に匹敵する。大江健三郎の名を知らない人はそういないと考えたいが、実のところ、書店では殆ど見かけることがない。海外でもいまはそう読まれていないという声も聞いた。海外はともかく、国内でこの情況は残念である。社会的な意義が強いため、好悪の差があるかもしれないとは思うが、障害者の家族としての意識を含め、やはり何かグサリと心に迫るものがあるのは確かだ。流行作家もよいが、この名前を聞いて、読んでみたいと思う人が現れてほしいと願う。
初期・中期と並んできて、少ないながらも後期のものも並ぶ。例によって、文学的作品はその粗筋をご紹介はしないつもりである。「あとがきとして」と副題的に付いている最後の文章は、私としてはまさに最後に読んだのだが、これからお読みの方にも、最後に読むのをお薦めする。
短篇の最初から、私は惹きつけられた。『奇妙な仕事』である。これを読んで、この本は全部読む気力が与えられる、と確信した。面白かった。これは、作家としての道を始めることに関わった作品である、ということが、巻末に書かれていたが、若々しくて、刺激的で、そしてちゃんと説明が完了している。もちろんそこには文学的な意味合いが詰まっているのだろうが、そこは天性というものなのだろうか、設定からしてわくわくするし、展開も最後まで関心を失わせないだけのもものがある。
その巻末の自らの解説は、そう長くはないものだが、圧倒されるような迫力を覚えた。79歳のときの文章である。改めてこのとき、本書の題を思い知らされた。「自選」なのだ。自ら選ぶということに、どれほどの思い入れやこだわりがあるのか、それが簡潔に記されていたのだ。もちろん全部ここに挙げることは難しいのだが、選ぶということは、ただ昔のどれを本にしようか、と考えることに留まらないということを教えられた。つまり、ここに改めてひとつの選集としての作品を提供するにあたり、「手入れ」をするというのだ。そして、自分の手で「最終的な底本作り」をここで成し遂げたというのだ。
このとき、夏目漱石の『こころ』を読み直す機会があった際に、大江健三郎は通巻したらしい。かつて読んだときとは違うものに気づかされるのだ。そしてそこに、「時代の精神」というものを見いだす。ならば、自分にとってのそれは何だろう。そこでまた考えさせられる。自分の場合は、「戦後の精神」なのだろう、と。
自分の歩みを、このように振り返ることができる人生は幸いであろう。そして年老いた時点で納得のできる形で、直すことができるとは、なんとも贅沢な人生である。やはりできれば、この「あとがきにかえて」は、作品を悉く体験した後に読むとよい。
作品としては、「セヴンティーン」のように、かなりとんでもないエネルギーに満ちたものもあると共に、しっとりと描く「雨の木(レイン・ツリー)」シリーズ、そして「イーヨー」と称する、脳に障害を持つ青年が度々登場する作品が並ぶ。もちろん、息子の光さんがモデルである。クマのプーさんのキャラクターの名であるそうだが、イーヨーの言葉がゴシックで示され、読者の目に迫ってくると、失礼な言い方かもしれないが、私はわくわくした。なんだか、楽しいのだ。心に迫るのだ。そして、新たなものが見えてくる気がするのだ。
それは中期の章に多く並んでいる。中には、「河馬に噛まれる」のような、若者の暴力を社会に見た中から生まれたであろうものもあり、印象的であった。
その「あとがきにかえて」という副題の付いた文章の本当のタイトルは、「生きることの習慣」であり、「ハビット・オブ・ビーイング」とわざわざ英語読みのふりがなが付けられている。それは、フラナリー・オコナーのエッセイの中に見つけた言葉なのだという。大江健三郎がその言葉に見いだした光が、オコナーのその言葉を訳した、連続する三つの文で示されている。そこだけは、引用させて戴こう。
小説を書くことは、全人格が参加する行為であり、芸術は人間の全体に根をおろしている習慣である。(改行)長い時をかけて、経験を通して、それを養わねばならない。そうすれば自分が知らない大きさの困難に出会った際に、この習慣が助けになる。……
作品をに手を加え、書き直す習慣は、困難を乗り超える力となっていたのだ。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド